芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、一柳慧さんとの思い出について。
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10月7日、前衛音楽家の一柳慧さんが食べ物を喉に詰まらせて亡くなった。一柳さんとは特別の想い出がある。彼を最初に知ったのは確か草月会館でジョン・ケージの不確定性音楽を演奏するステージでだった。ピアノの前に座るなり腕時計をはずして、楽譜台に置く。その後、延々沈黙。何分かの沈黙のあと、演奏者の一柳さんは立ち上がってピアノから離れた。沈黙そのものが音楽だった。その間、ピアノを叩く音は一度もなかった。観客の聴いた音は、人の咳ばらいや座席のきしむ音、会場の外を走る車のかすかな音。この何もない無為の音楽に惹かれた僕は、その後一柳さんにアニメーション作品、高橋睦郎作「堅々獄夫婦庭訓(かちかちやまめうとのすじみち)」の作曲をお願いした。
1967年、初めてニューヨークに行った。同時期に一柳さんはニューヨークに滞在していた。知人のいなかった僕は一柳さんと毎日のように会って、ハワード・ジョンソンの安物のステーキを毎日食った。そんな2人にあっけにとられた武満徹さんは「あんな草履みたいな1ドル29セントだかのまずいステーキなどよく食ったね」と言われたが、僕はこのステーキこそタイムズスクエアーを象徴していると興奮したものだ。この頃、ニューヨークはヒッピーカルチャーのサイケデリックムーブメントで、イーストビレッジのロックの殿堂エレクトリックサーカスではアンディ・ウォーホルのプロデュースのベルベット・アンダーグラウンドがライブコンサートをやっていた。
一柳さんは現代音楽家だけにアメリカの現代美術の作家や現代音楽家との交流があった。僕はまだグラフィックデザイナーだった。アメリカは現代美術と商業美術の間には一線が引かれており、両者は無縁の関係だったが、この時代はポップアート全盛で現代美術が商業美術を完全に凌駕していた。僕はすでにアメリカのトップデザイナーとは交遊していたが、彼等の誰一人として現代美術の作家と交流している者はいなかった。元デザイナーだったアンディ・ウォーホルもデザイナーを無視しているように思えた。ところが一柳さんにジャスパー・ジョーンズを紹介されて以後、僕の興味の対象は完全にポップアーティストに移り、独自に、ウォーホルや、トム・ウェッセルマン、後にラウシェンバーグと出会うことになった。