「チキンジョージ」で取材に応える花岡献治
「チキンジョージ」で取材に応える花岡献治
この記事の写真をすべて見る

 憂歌団のベーシスト、作曲家として活躍した花岡献治。知る人ぞ知るブルース界のキーパーソンだが、このところ地元・大阪でその姿を見る機会はめっきり減った。公式ホームページがないので近況もうかがえない。

【この記事の写真の続きはこちら】

 唯一、手がかりになるのはSNSなどでたまに誰かが投稿しているライブの告知。表立った活動から身を退いたというわけではないのだろうが、69歳という老境に差しかかった彼は今どのような思いで音楽に向き合っているのか。

 そんなことを思っていたところ、神戸の老舗ライブハウス「チキンジョージ」がごく身内向けに催した新年の宴で彼の姿をみつけた。

本に住んでるんです。7、8年ほど前に体を壊してしまって、ライブツアー先の熊本で限界がきて緊急入院。しばらく療養してるうちに熊本地震で被災してケガでまた寝たきり。現地のファンの人たちが心配して、しばらくゆっくりするように言ってくれてね。おかげで今は少し元気になってきました」

 最近は熊本市の郊外で生活しているという花岡。たまに用事がある時だけ大阪や東京に出掛けるというスタイルだそうだ。

「たまにこうやって都会に出てくると、人が多すぎてしんどいね。神戸も大阪も街の形が変わってしまって浦島太郎みたいに感じる。本場の串カツやお好み焼きが食べたいから、それでもたまに帰ってきてるんやけど(笑)」

 僕は花岡と向かい合って話すのは初めてだったが、共通の知人の話題やザ・タイガース、オックスなど彼が10代の頃大好きだったというグループサウンズの話題で大盛り上がり。2杯、3杯と酌み交わした酒の助けもあって、近況について包み隠さず話してくれた。

「正直、倒れる前は音楽が嫌になっていました。何もやりたいことが思いつかず、仕事のために仕方なく楽器を手に取るという感じ。いつの間にか自分がやりたい音楽じゃなく誰かのための音楽になってしまってたんやね」

 憂歌団が活動停止した後もそのイメージを背負わされ、スケジュールや人間関係に束縛される日々に疲れ果てていたという花岡。熊本での新生活は偶発的なものだったが、まんざら悪いものではないという。

次のページ
「死ぬ時は『憂歌団の花岡』ではなく…」