1990年、宮城県石巻市で生まれた。両親と、3歳下の妹との4人家族。父・喜好(きよし)はトラックドライバーだったが、その前は漁師として海へ出ていた。母の礼子も半島部の小集落出身で、海が遊び場だったという。妹の香帆はそんな両親の特性を色濃く受け継いだのか、幼いころから活発に外を走り回り、29歳になったいまはバイクツーリングを趣味にしている。しかし、石森だけは毛色が違った。運動は大の苦手。家のなかで過ごすのが好きだった。幼稚園のときにエレクトーンを習い始め、同じころ、親戚にもらった古いワープロにも夢中になった。教わることなくローマ字を覚え、キーボードを見ずに入力するタッチタイピングは小学校入学前にマスターしたという。正反対のきょうだいだが、仲はいい。香帆は言う。

「穏やかな性格の兄に対し、男勝りな性格の私。キツめの言葉を使ってしまう私とは正反対で、優しく家族思いの兄です。小さい頃は『かほちゃんも行こうよ』といつも手を引いてくれていたし、今も家族や親戚の集まりにはできる限り顔を出す。今年の私の誕生日も、石巻にいてくれました」

 小学3年生の終わり、貯めていたお年玉で初めてのパソコンを買って以降、石森は猛烈な勢いでITの技術と知識を吸収していく。小学6年生のときには自身でサーバーを構築してレンタルサーバーサービスを始めた。身近に師と呼べる存在はいない。だが、ネット上のやりとりを通して仲間ができた。ゲヒルンの専務で、長年石森を支えてきた盟友・糠谷崇志(ぬかやたかし)(32)と出会ったのもレンタルサーバーを通してだった。

「石森のサーバーは2ちゃんねるでスレッドが立つほど有名でした。複雑なつくりで、それも自分と同世代がやっている。興味を持ってチャットサービスで話しかけたのが始まりでした」(糠谷)

■石巻の実家が津波で全壊 「逃げて」が届かなかった

 石森の名がIT業界で知られるようになったのは、高校3年生のとき。テレビドラマに登場するクラッキングシーンを分析・解説する記事をテクノロジーメディアに寄稿すると、それが評判を呼んだ。記事をきっかけにドラマの技術監修を担当したセキュリティー企業でアルバイトを始め、筑波大学入学後の2010年には同社役員らの出資を受けてゲヒルンを起業している。積み重ねた研鑽(けんさん)が、特務機関NERVの技術的な礎になった。

 ふたつの輪のもう一方、防災情報発信への信念が芽生えたのは、東日本大震災がきっかけだった。

 津波で実家は全壊。東京にいた石森は揺れの後、実家の母と妹に何度も避難を促す連絡を試みた。だが声は届かなかった。二人は逃げ遅れ、2階に駆けあがってかろうじて難を逃れた。また、別の場所に住んでいた親しかった伯母が亡くなった。

「あの日、『逃げて』という声が大切な人に届かなかった。次はちゃんと届けなければいけないし、その次も同じように行動できなければいけない。できることをやり続けようと決めました」

(文中敬称略)

(文・川口穣)

※記事の続きはAERA 2022年9月26日号でお読みいただけます。

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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