広津の「三番町時代の彼」によると、直木はニヤニヤしながら「もうじき東郷さんの家に火がつきそうだ。早く火が回り俺の家が焼ければしめたものだ」と我が家が焼けるのを心待ちにしていたという。その理由が抜け目のない直木らしい。家財道具はすべて差し押さえられていた直木は、震災直後にめぼしい家財道具を避難させていた。家が焼ければ差し押さえ品も焼けたとみなされるからというのだ。震災後、直木は大阪に移住した。
震災後の帝都の様子については多くの作家が文章を残している。当時、大学を中退したばかりで文士の卵だった井伏鱒二は「震災避難民」で文壇の大御所・菊池寛が取った行動を面白おかしく書いている。
<「文藝春秋」を発行している菊池寛は、愛弟子横光利一の安否を気づかって(中略)「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」という意味のことを書いた旗を立てて歩いた。(中略)文壇の元締菊池寛が血相変えて、横光ヤーイの幟を立て東京の焼け残りの街を歩く>
当の井伏は倒壊しかけた下宿から財布とカンカン帽と洗面具だけを手に、中野近くの芋畑で悠然と野宿をしたという。
最後に、震災後に起こったデマ「不逞朝鮮人」騒ぎに文豪たちはどう対応したか。各地で自警団が結成され、芥川も菊池も永井荷風も、多くの文豪がむしろ楽しみながら夜警活動についていた。しかし、震災当時は京都にいて難を逃れたが、被災した家族を心配して東京に戻ってきた志賀直哉はそうした自警団を目にして「震災見舞」で痛烈に批判した。
<東京では朝鮮人が暴れ廻っているといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかった。松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追ひかけるのを見た。「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、余りに簡単すぎた。今もそれは半信半疑だ>
震災以降、文壇の勢力図は大きく変化する。横光・川端らが掲げる“新感覚派”と、プロレタリア文学の勃興である。(本誌・鈴木裕也)
※週刊朝日 2022年9月9日号