司馬史観はそれまでの“ひたすら日本が悪かった”という「自虐史観」に一石を投じるものではあるが、決して戦前の日本を礼賛するものではない。昭和前半、太平洋戦争に至る道を軍部が統帥権という「魔法の杖」を手にしたことによる暴走と捉え、時代遅れの装甲の薄い戦車で旧満州の野に出された帝国陸軍将兵の悲哀を自らの経験を踏まえて語るなど、バランスの取れたものである。晩年にはノモンハン事件を小説にしようとして取材していたが、「国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやった」陸軍があまりに馬鹿らしくて執筆に至らなかったという。
さて、当時はあまり深く考えずに読み飛ばしていたが、今になって気になるのは司馬氏の歴史上の人物に対する個人的な好き嫌いがはっきりしていることである。
主人公になるような奇抜で諧謔味(かいぎゃくみ)のある人物には極めて寛大である一方、嫌いな人物は徹底してこき下ろしている。例えば、日露戦争において中国・旅順で多くの犠牲を払った乃木希典大将は「詩人として超一流だが武人としては凡将」としているが、現在では限られた時間内に要塞を攻略するには乃木と伊地知参謀長の作戦はやむを得なかったとされる。大村益次郎の暗殺を使嗾(しそう)したと噂された海江田信義を「偏狭な小物」としているが、「あれは濡れ衣で、薩摩隼人はそんな姑息なことはせんですよ」と海江田の子孫の老紳士が語っておられたことを思い出す。
わが日本大学の学祖、山田顕義伯も『花神』では「大村門下の俊秀ではあるが狭量な人物」と描いている。まあ、小説であるからそこのところは致し方ないが、あまり注目されることのなかった河井継之助(『峠』)や高田屋嘉兵衛(『菜の花の沖』)などを主人公にした小説はドラマや映画にもなり、各々、新潟や淡路島の郷土の英雄となっている。満州族による清朝の成立とこれに関わった日本人武士を描いた1987年の『韃靼疾風録』を最後に小説を離れ、評論や紀行文が中心となった。文化功労者への選出や文化勲章受章を経たのちも紀行は続き、『国盗り物語』の舞台であり、多くの作中人物(と筆者)の故郷である美濃・尾張・三河を舞台とする『濃尾参州記』が絶筆となった。