■1枚の作品を2人つくり出す
撮影は朝、ドラマチックな光が照らす斜面で行われた。太陽が高く昇った昼間の光では陰影が弱くなってしまい、迫力ある写真にはならない。
「朝、山小屋を出るときは、まだ真っ暗。3時半とか、4時に出発して撮影場所を目指して登る。で、斜面に朝日が差し込んだ、いちばんいい光のときにパーッと滑り出すわけ」
滑り出すタイミングは、水谷さんがストックを上げて合図する。しかし、スキーヤーとの距離が遠いうえ、視界のコンディションが悪ければ、合図は見えない。
「だから、スキーヤーの判断で滑り出すこともある。それに備えて、こっちはいつでも撮れるような態勢で待ってなきゃならない。マイナス20度とかだから、もう、寒いったらありゃしない。それに耐えてずーっと待つわけだ」
そして、水谷さんは、こう続ける。
「苦労して、撮影現場まで登ってみたら、想定外の条件で、『あっ、ダメだ』なんて、絶対に許されない世界だから。さまざまなことを想定して、綿密な打ち合わせをしたうえで撮影に挑む。そういうことがきちんとできる信頼関係を築いておくことが大事だね」
さらに、水谷さんは雪煙が舞う斜面を滑り下りる写真を見せながら、自然を読むことの大切さを説く。
「これなんか、風が吹いてから飛び出したら、もう遅いわけ。風が吹く前にそれを予測して、OKを出して、滑ってくると、風がバーッと舞ってくる。予測はとても難しいけど、それが読めないとダメだね。滑って、風がこなかったら、もう、ここの撮影は終わりだよ。跡がついて、この斜面は使えない。1つの斜面で1枚しか撮れない写真を撮るために、ものすごくパワーを費やす。スキーヤーも俺もね」
■「遠足は全部、山だった」
1940年、水谷さんは中央アルプスと南アルプスに挟まれた長野県飯田市で生まれた。
「遠足なんか、全部、山だった。峠を越えて、6~7時間歩いて宝剣岳とか、塩見岳に登った。そういう環境だったから、写真をやるようになってからは、山岳写真家になりたいと思ったんだ」
しかし、生まれ育った長野県南部は冬、晴れた日が多く、雪はほとんど降らない。
水谷さんはどこでスキーと出合ったのか?
65年に東京綜合写真専門学校を卒業すると、翌年、学校の先輩で山岳写真を撮っていた横山宏さんに「スキーを撮りたい」と言われた。「それで、俺がアシスタントをしたわけ。要は荷物持ちだ」。
そこで出会ったのは、当時、三浦雄一郎さんと双璧と言われた杉山進さんだった。