社会人野球のハナマウイでプレーする大友潤(筆者撮影)
社会人野球のハナマウイでプレーする大友潤(筆者撮影)

 大友家は小学校に入るタイミングで札幌市へ引っ越した。持ち前の運動神経を生かして中学から本格的に野球を始めた。子どもたち2人が連絡を取ることはなかったが親同士は折を見て連絡を取っていたという。天才ジャンパーとしての高梨の活躍は意識しなくても耳に入ってきた。

「引っ越してからは僕は連絡を取っていません。自分の生活があったし思春期の真っ只中でしたから。親同士は年賀状のやり取りや電話連絡などをしているみたいです。沙羅の情報は小学校高学年くらいからどんどん入ってきた。早くから北海道では有名な存在でしたがどんどん全国区となり、頑張っているなと思っていました」

「結果が出るたびにうちの親も喜んでいました。沙羅のお母さんからも情報を聞くことがあったみたいですね。こうだったらしいよ、と僕にも教えてくれました。テレビで特集なども組まれていましたけどそれ以上に頑張っていたようです。小学校時代からジャンプに集中していて練習時間などは凄かったみたいですね。今もそうですが当時から本当に小さい女の子(現在の身長は152cm)だったので相当の努力をしたのがわかります」

 小学校時代から徹底的に練習していたことは有名であり、大友も覚えている自宅裏のジャンプ台で飛び続けた。冬場はもちろん夏場は車輪の付いたローラースキーで飛ぶ練習を繰り返したことはよく知られている。兄・寛太氏、元ジャンプの選手だった父・寛也氏と3人で頂点を目指す日々が続いたという。

 大友は高校時代に1度だけ高梨に“ニアミス”したことがある。高梨は12年3月に15歳でW杯初優勝を果たしたことから、夏の高校野球南北海道大会の始球式に招待された(12年7月16日・札幌円山)。

「高校1年夏の大会で沙羅が来ました。その時にうちの親は本人とも会ったそうです。僕も始球式は事前に知っていましたけど会わなかった。大会中だったのでチームに帯同していたし他の部員がいたのもあります。でも今考えると会いずらかった部分もあったかもしれません。当時はすでに遠い存在で雲の上の人になっていましたから」

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今も刺激を与えてくれる高梨の存在