1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、かつて「江戸湊」と呼ばれた中央区・高橋周辺の情景を紹介しよう。
【写真】現在の同じ場所は激変? 57年が経過した「今」はこちら
* * *
江戸が「水都」だったことを示す地名はいまでも数多く残っている。今回紹介する「八丁堀」もしかり。かつて舟運で栄えた場所は、昭和の高度経済成長期には都電が足となった。
冒頭の写真は、越前堀停留所を発車して亀島川に架かる「高橋」を渡る5系統目黒駅前行きの都電。このコンクリートアーチ様式の高橋は1919年の竣工で、橋上の八丁堀線は1920年に開業している。車窓左手には船溜まりが広がり、下流に架かる南高橋は旧両国橋のアーチ橋を移設した明治の香りを堪能できる道路橋として著名だ。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」や「高橋のらくろロード商店街」で知られる「高橋」は、江東区の小名木川に架かる橋で「たかばし」と呼ぶ。こちらの高橋は、「たかはし」と呼んで区別している。江戸期の昔、橋の下をくぐる船の帆柱が支えないように橋桁を高くこしらえたのが、「たかはし」の由来になったようだ。
高橋を渡る江戸湊の都電風景
山手の目黒駅前と下町の永代橋を結ぶ5系統は10184mの路線で、古川橋や日比谷公園、都庁前などの主要停留所を経由するものの、目黒車庫が所轄する1000、1100型の小型車が充当される閑散線区だった。都庁前から永代橋行きに乗ると、八丁堀を過ぎたあたりから、低い家並の中に鉄鋼業、洋紙業、酒造業などの倉庫や事務所が目立ち始める。鍛冶橋通りに敷設された八丁堀線は、その先の亀島川の高橋を渡るが、往時は「江戸湊」と呼ばれる船溜まりがあり、江戸湾からの大小伝馬船で賑わった物流の集積地だった。陸路の輸送が脆弱だった時代、水路輸送に頼った鉄鋼、紙業などの倉庫がこの地に集積した理由がわかる。
次のカットは旧景から57年を経て定点撮影した一コマだ。高橋は鍛冶橋通りの拡幅計画により、1984年3月に鋼床箱桁様式の橋に架け替えられている。旧景の都電右側に写る「高橋」の橋名柱(高ははしご高)は、こちらの画面左側の高橋東詰めにある「高橋南東児童遊園」に保存されている。背景の亀島川畔には高層ビジネスホテルも建設され、1967年12月に廃止された都電路線ともども、往時の面影は皆無となった。
松平越前守の屋敷地だった越前堀を走る都電
高橋を渡った東側が越前堀の街だった。江戸期には、この一帯が福井藩主松平越前守の屋敷地で、屋敷の三方に入堀を巡らしたことから「越前堀」と呼ばれていた。明治期に越前堀が町名となり、1971年の住居表示改訂で新川に町名改称されるまで用いられた。