■「生きること」を求めることは罪なのか?
人間として生きたい、人間であり続けたい、と願い続ける竈門兄妹の心は美しい。罪のない人を傷つけてまで、生きていてはいけないという彼らの決意は重い。では、妓夫太郎や堕姫のように「生」に執着することは醜いことなのか。「生きたい」という気持ちは誰しもが持つ希望であり、大切な人に「生きていてほしい」という思いも持っていて良いはずだ。
<鬼になったことに後悔はねぇ 俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる>(妓夫太郎/11巻・第96話「何度生まれ変わっても<前編>」)
妓夫太郎は妹が鬼になっても、妹をかばいながら戦い続けた。「何とかしてよォ お兄ちゃあん!! 死にたくないよォ」こんなふうに泣いて頼む妹の姿を見て、助けてやりたいと思った妓夫太郎を誰が「悪」だと責められるだろうか。
■真の兄妹愛
鬼は「生」に執着する。「化け物」へと姿を変えることを代償に、“ほぼ永遠”の命を手に入れる。しかし、妓夫太郎の真の願いはそんなことではなかった。妓夫太郎は「俺の唯一の心残りはお前だったなあ」と、妹の梅(堕姫)に人間の女の子の「普通の幸せ」を与えてやりたいと思っていた。
堕姫にとって妓夫太郎は、誰よりも優しい兄だ。梅の最後の願いを聞けば、そのことがはっきりとわかる。
「何回生まれ変わっても アタシはお兄ちゃんの妹になる絶対に!!」
鬼になってもなお愛してくれる兄の隣だけが、誰も愛してくれる人がいなかった堕姫の唯一の「生きる場所」だった。たとえ間違えた道を選んだのだとしても、彼らの兄妹愛は本物だった。
◎植朗子(うえ・あきこ)
1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が好評発売中。