戦後、奇跡の復興を遂げた日本は、サンフランシスコ講和条約(51年)、自民党誕生・55年体制のスタート(55年)などを経て、現在に続く国家の形を形成していく。やがて高度経済成長期に突入する中で、多くの国民が注目し、その行方を見守り、多幸感に包まれた出来事が、59年の皇太子さま・美智子さま(現・上皇ご夫妻)のご成婚だった。
初の民間人からの皇太子妃として選ばれた正田美智子さんの注目度は高く、世の中には“ミッチーブーム”が巻き起こり、本誌でも何度となくご成婚の特集が組まれた。
58年12月7日増大号では、<特集・皇太子妃決定>と銘打ち、その人物像に迫った。グラビアでは自室での写真や軽井沢のテニスコートでの皇太子さまとの仲むつまじいショットを掲載。そして、取材を担当した5人の記者による取材メモからその顛末を掘り下げた。
取材班は、皇太子妃として選ばれそうな女性は誰か、元皇族、元華族をはじめ、可能性のありそうな女性を次々に洗い出し、<そんなこんなで、われわれが当った家庭の数は六万を越えた>。そこから1500人を選び出し、<この千五百人を五十人くらいにしぼるという“作業”を始めた>。
<元皇族、華族をのぞいた民間出の中では、すでに正田美智子さんの名は、とびはなれて有力な一人として二重丸をつけられていた>として、その裏付けとなる理由、家柄や通っているテニスクラブの情報などを記している。
この時期の美智子さまの存在を、本誌編集部はじめ各マスコミよりもいち早く知っていたのが、美智子さまについての著作も多数ある皇室ジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡辺みどりさんだ。
渡辺さんは美智子さまと同じ年齢。55年に読売新聞が成人の日特集として募集した作文コンテストに、美智子さまも渡辺さんも応募した。当時、聖心女子大学の2年生だった美智子さまは、このコンテストで堂々の2位入選だった。
「そればかりか、賞金の半分の千円を社会事業に、残りの半分は母校の奨学資金として寄付されたと新聞に書かれていました。もし賞金がもらえたらスキーに行こうなんて考えていた自分と比べて、同時代にすごい方がいらっしゃるんだとガツンと刷り込まれました」