日本の歴史に残る衝撃的なクーデター事件であり、朝日新聞社も襲撃されたものの、本誌3月8日号での記事の扱いは、<逝去した人々>として、高橋是清大蔵大臣や渡辺錠太郎陸軍大将らの訃報を1ページ掲載、翌15日号では「二・二六事件日誌」という見出しで、<本日午前五時頃一部青年将校らは左記箇所を襲撃せり><戒厳司令部当局談の形式で、今次事變経過の概要を発表><廣田外相と寺内大将(軍部)などの折衝つゞく>など、事実を時系列でわずか3分の1ページほどのスペースに淡々と書き連ねただけだった。
これは当時、報道規制で当局発表だけに制限されていたためで、事件の背景や考察など、本来、報道機関が読者に伝えるべき事柄については触れられていない。
41年、12月21日号では「對米英宣戰の大詔」として、太平洋戦争の開戦の詔書をそのまま載せ、<十二月八日、ハワイは遂に爆撃された>と、真珠湾攻撃をリポートしている。そして「屠れ! 米英 われ等の敵だ! 進め一億火の玉だ!」とのスローガンや軍歌の歌詞と楽譜なども大々的に掲載するなど、戦争への士気を高揚させる記事を連発した。明るく華やかな話題は激減し、戦局をひたすら伝える記事がページを埋め、広告も戦争を意識したものが多数掲載される時代が続いた。
そして45年8月、終戦を迎えると、本誌は8月12・19日号で「ポツダム宣言の進路 忍苦よく皇國日本再建へ邁進せん」と、ポツダム宣言が今後の国の指針となるとして、具体的にこれから何が変わっていくかについて書いている。
その中で、日本の領土として<われらの決定する諸小島>という文言が、どこまでを指すのかについて分析、沖縄についても、<ポツダム宣言の謂ふ「われらの決定する諸小島」のなかに入るものであるか、どうか>と記している。
また、<武装解除と復員・戰争犯罪人の處罰><民主々義的傾向の復活強化の問題>などの戦後処理について触れ、<平和的傾向を有する政府の樹立>や、<占領期間の長短は一に我等の努力に>と、戦後不安だらけの中、日本が一歩を踏み出したことを感じさせる記事になっている。