林:そうだったんですか。
佐藤:そのうち世の中が物質主義に染まってきて、丹羽文雄とか田村泰次郎とか、大金持ちの作家が出てきて豪邸を構え、文壇的にも幅を利かすような風潮が出てきて。もちろん、私なんぞはどこまでいっても、小説雑誌のにぎやかしどころの立場でした。
林:先生が直木賞(『戦いすんで日が暮れて』1969年)をおとりになったとき、本当は芥川賞のほうがよかったんですか。
佐藤:いや、私はどっちだっていいんですよ。私は文学少女じゃなかったし、戦争中のふつうの娘だから、本なんか読んだことなかったんです。でも、結婚したら、亭主がモルヒネ中毒で。一緒にいてもこの先滅びることは見えていたから、私は別れたかった。でも母は、「あの子は別れたって何もできない」って心配して、母なりに「何をやらせればいいんだろう」って考えたみたいです。
林:ああ、お母さまが。
佐藤:そうなの。昔、私が亭主や姑の悪口を書いた手紙を父(作家・佐藤紅緑)が読んだときに、心配するよりも面白がっていたんです。私は中部地方の医者の家へ嫁に行ったんですが、地方と東京では価値観が根底から違いますから、まして私は作家の家育ちで世間の非常識が私の常識というあんばいなので、その不満やら悪口を父に書いて送ってた。父はそれを読んで、「悲痛な手紙のはずなのに、ちっとも悲痛ではない。面白い。愛子は嫁になんかやらないでもの書きにしたほうがよかったかも」なんていってたそうでね。母は、それを思い出した。考えれば考えるほど私は無能で嫁向きではなかったと気が付いて、小説家を目指したらどうか、という話になったんです。無謀な話ですよね。ためしに一つ書いたら、悪くない、面白い、ということになったんです。
林:それがきっかけだったんですね。
佐藤:その頃、作家を引退された加藤武雄先生が父と親交がおありになったので、その縁で加藤先生のところへ弟子入りしたんです。書くとなったらモリモリ書けるんですよ。それを加藤先生の所へ持っていく。先生は読んで「うまい、面白い。愛子さんは天才だ」といってくださった。私は舞い上がって、近いうちに雑誌に出られるような気持ちでした。先生の紹介状を持って、あちこちの雑誌社へ原稿を持っていく。一応、加藤先生の紹介状があるからすぐに読んでくれるんだけれど、感想はボロクソの連続でした。母は「大丈夫かいな、加藤さん。ボケてはるのとちがうか」といいだす始末。結局、その後「文藝首都」へ入ったんです。