田原総一朗・ジャーナリスト
田原総一朗・ジャーナリスト
この記事の写真をすべて見る

 ジャーナリストの田原総一朗氏は、日本の安全保障について、「米国に委ねているわけにはいかない」と訴える。

【この記事の画像の続きはこちら】

*  *  *

 先日、映画「ファイナルアカウント」の告知イベントに出演した。

 この映画はヒットラーのナチス当時、子供だったドイツ人たちが共鳴したという事実を描いている。

 私も太平洋戦争が終わるまでは軍国少年だった。教育とは怖いものだ。その体験が私のジャーナリストの原点であり、安全保障にこだわっている理由でもある。

 池田勇人以後、佐藤栄作、田中角栄ら、自民党の歴代首相はいずれも、憲法9条に自衛隊を明記することにはきわめて慎重だった。憲法と自衛隊の存在は大矛盾しているが、彼らにはある考えがあった。

 憲法9条2項で、日本国は戦力を持たない、陸海空軍は保持せず、交戦権を有しない、と明記しているのだが、自衛隊は明らかに戦力であり、交戦権を有している。これは憲法を押し付けたのも、自衛隊を押し付けたのも米国であり、米国の対日戦略が大きく変わったためであった。

 だが、歴代首相らがいずれも改憲を避けたのはなぜか。戦争を知っている世代の首相たちは、安全保障を主体的に考えること自体が危険で、それを考えるとどうしても軍事大国になり、それによって日本は過去に大失敗したと捉えていて、安全保障は米国に委ねる、つまり米国に守ってもらっているほうが安全だと考えてきたのだ。

 かつて、宮沢喜一氏が「日本人は自分の体に合った服をつくるのは下手で、押し付けられた服、つまり憲法に体を合わせているほうが安全なのだ」と説明した。

 だが、このやり方が有効なのは、米国が「世界の平和を守るのは米国だ」という使命感を抱いていた時代、つまりパックス・アメリカーナが生きていた時代である。米国の経済力が大きく落ち込み、オバマ大統領(当時)が「米国は世界の警察官であることをやめた」と表明し、トランプ大統領(同)は当然とばかりに「世界のことはどうでもよい、米国さえよければいいのだ」と宣言。それが多くの米国民の支持を得た。

次のページ