経営統合しか生き残れない
シップリフトが鍵になる
そのとき、「出戻り」の木戸浦は、気仙沼の造船業を100年先に受け継ぐプランを温めていた。それが造船所どうしの経営統合とシップリフトの導入だった。
造船業を営む家の次男に生まれた木戸浦は、少年時代、ラグビーに熱中した。ポジションはスクラムハーフ。体の大きなフォワードと俊足のバックスのつなぎ役である。高校を卒業すると家を飛び出し、北米でマーケティングやヨットの設計を学ぶ。帰国して国際ヨットレースに出場する日本艇の製造に携わり、08年に家業に加わった。武者修行を終え、故郷に帰って目にしたものは「子どものころと同じ光景」だった。
「時間が止まった感じですね。設備は変わらないまま老朽化し、昔、遊んでもらったオジサンがクレーンを操っている。僕の代でクレーンの更新に3億円投じたら、何もできない。周囲の造船所も職人さんが高齢化して、早晩、技能工が消え、気仙沼の造船所は潰れる。生き残るには一に人、二に人。他社と経営統合するしかないと思いました」
木戸浦造船に入って間もなく、気仙沼の船が南アフリカの造船所でシップリフトという斬新な仕組みでドックに入ったと聞いた。日本の造船所では、満潮時に船を海から海岸に敷いた斜路に引き上げて修繕にとりかかる。作業が完了するまで、斜路の船台はふさがったままで、他の船を入れられない。かたやシップリフトは、船を工場と同じ地上レベルまで垂直に引き上げ、牽引車で広いドックヤードのスペースに移動して作業を行う。スペースに空きさえあれば、シップリフトで次々に船を上げ、同時並行で工事を進められる。作業効率が飛躍的に高まるのである。
「これだ!」と木戸浦はひらめいた。しかし、シップリフトには数十億円の設備投資を求められ、自社では手が出せない。加えて浪板地区は平らな敷地が狭く、シップリフトには不向きだった。
「やるなら産業用の広い埋め立て地。そこにシップリフトの新工場をつくれば、四つか五つの造船会社が統合するモチベーションが上がると考えました」と木戸浦は自らの着想をふり返る。