■戦争孤児対策でつくられた児童相談所と児童養護施設
塩崎さんのまぶたには昔、目にした光景が浮かんだ。
「私が子どものころ、ガード下で生きる人たちがまだおられました。それに近いかたちで身寄りのない子たちがいたのですね。戦争孤児です。その子どもたちを収容し、暖かいところで食事をさせ、ゆっくりと寝かせてあげる施設がつくられた。それが児童養護施設の原型です。ところが、虐待が原因で保護せざるを得ない子どもが急増した1990年代以降も児童福祉の基本的な考え方が変わらないまま、ここまできてしまったのです」
1947年、児童福祉法は戦争孤児対策の施設収容を趣旨として制定された。それに基づき、つくられた児童相談所や児童養護施設は、対応すべき問題が大きく変化したいまも、設置の原点である「収容施設」という閉鎖的な色が染みついていると、筆者の目には映る。
厚労相となった塩崎さんは、戦後70年間続いた児童福祉法の抜本的改正に取り組んだ。
塩崎さんは、改正前の児童福祉法の基本理念である第一条を読み上げ、こう言った。
<1すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない>
「何か人ごとみたいに聞こえませんか。子ども中心ではありませんし、努力義務でしかありません」
<2すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない>
「『愛護される』って、まるで愛玩動物のようですね。その権利を認めつつ、一人の人間として向き合う姿勢が感じとれませんでした」
塩崎大臣がこだわったのは「子どもの権利」「子どもの最善の利益優先」「家庭養育優先」。この3原則をいかに盛り込むか、だった。
■数値目標を掲げられた施設の困惑
改正案の草案づくりでは、当時の雇用均等・児童家庭局の局長などと大臣室で、しばしば激しい議論となった。
通常、改正法案の条文は事務方が詰め、それに大臣が注文をつけることはほとんどない。しかし、塩崎さんは文書による「大臣指示」を法案提出までに、実に7回も出し、やりとりを繰り返した。