とにかく面倒臭いことを考えるのが大嫌いだ。「早よう決めてんか」というのが僕の正直な気持ちだ。面倒臭いことが嫌であると同時に、物事を達成するまでに飽きてしまって、すぐ諦めてしまうところもあるが、これも関西人気質だ。「面倒臭い、もうええわ、しゃーないわ、勝手にしてえな」と途中段階で放逐するのもいとわない。だから僕の作品の大半は、ほとんど未完成である。完成させることに意味も興味もさほどない。そのプロセスを楽しむことが僕の創造である。どう生きたかはどうでもよくて、どう生きるかが問題なのである。
話があらぬ方向に流れてしまった。お笑いの話だった。関西のお笑い芸人の仕草をよく見ていると気づくと思いますが、何が面白いのか自分で笑いながら大声で、身体をグニャグニャよじりながら、しゃべる。明石家さんまがその典型。実に肉体的である。言葉がそのまま肉体の動作に反映する。その肉体の動作がそのまま思想であったり観念や論理になった肉体言語である。言葉で伝わらないことを肉体表現で伝えようとしている。そこはまた文学的というより演劇的、絵画的である。このようなボディランゲージは何もお笑い芸人だけではない、一般の関西人特有の自己表現でもある。
関西出身の僕は今でも東京的生き方が難しい。僕の周辺の人間の大半は観念的で論理的な話し方をする。そこには肉体性がどこか欠如しているように思うが、ひとつ面白い話をしましょう。僕が関西の広告会社に勤めていた頃、会社の所長の毎朝の訓辞がこんな具合だ。「ほんなひとつ、今日もきばって、一発ドカーンとやってくれよな」でその日の話は終る。社員一同パチパチと手を叩いて、「ホナ、歯食いしばって、きばろかあ」ということで、これで充分所長の言うことはそのままパワーとエネルギーに変換されて、社員の肉体にしみ渡る。東京人から見ればお笑いそのもので何の内容もない。だけど内容のない話を説いて内容のある仕事をすればいいのである。ぐだぐだ説教されるより、この方が、創造のエネルギーがわれわれの肉体を働かせる。
昨夜、フト松竹新喜劇の舞台をテレビで見た。様々なキャラクターが騒々しく舞台を走り廻っている。何の芝居か、何をしているのかさっぱりわからなかったが、それぞれの異なったキャラクターの登場人物はもしかしたら一人の人間の中に存在している性格ではないかと思った。善人、悪人、が混ぜこぜに動き廻っているが、見ていてそのひとりひとりがどうも自分の中にある性格の多様性のように思えてきた。「私」の中の複数の小さい私が演じていると気づいた時、この芝居が急に面白いと思い始めた。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年3月25日号