筆者も20年ほど前から、宮崎さんには先輩としていろいろ教わり、時には頼み事をしたり、されたりと親しくさせていただいた。宮崎さんと会うと誰もが、本当にグリコ森永事件の犯人ではないのかと聞きたくなる。
2000年に一連の事件が時効を迎えるまでは、
「お前、俺が犯人やと思うて、そういう話を振っているんやろう。犯人でグリコや森永と裏取引していたら、こんな貧乏してないぞ。もっとええ店で、ごちそうしてやるわ」
と神戸の繁華街でお好み焼きをほおばりながら、そう笑っていた。
そこで、脅迫状の便箋について問うと、
「あの便箋、あれは俺もびっくりした。焦った」
「なら、やっぱりやったんですか」
「アホいえ、そんなことあるかいな」
と漫才のような会話をしていた。
宮崎さんが週刊誌記者の時代から付き合いがあるジャーナリストの二木啓孝さんはこう語る。
「当時、グリコ森永事件をはじめ、何か思想的な背景の事件があるたびに、宮崎さんの名前が浮上していましたよね。グリコ森永事件は関係ないと思いますけど、宮崎さんって、半分怒りつつも半分楽しむという、そういう胆力の持ち主でした」
グリコ森永事件に関連するものが00年に時効を迎えると、宮崎さんの筆はさらに勢いを増した。
タブーのように見られがちな暴力団や右翼などの問題には、積極的に取り組み発信した。また、権力に対しては、徹底的に戦った。
宮崎さんが大谷さんと一緒に北海道警の裏金問題についての共著を出したのは04年のこと。後に道警は、出版社などを相手に民事訴訟を起こした。
大谷さんと宮崎さんに対しては、何ら訴えてこなかった。宮崎さんは
「面白うないがな」
といい、大谷さんを誘って補助参加人として、裁判にかかわった。大谷さんが話す。
「権力に対する強い闘争心があった。『北海道警は権力をかさにきて、なんや』とわざわざ火中の栗を拾いにいった。こちらは裁判のたびに北海道まで行き、大変でしたが、そういう権力との戦いにも積極的でした。すごいことですよ」