約30年にわたるコーチ歴で、落合博満をはじめ、西村徳文、小久保裕紀、田口壮、サブローらを育て、“伝説の打撃コーチ”と呼ばれたのが、高畠導宏だ。
79年にロッテに入団した落合は、左腕を伸ばして打つ独特のフォームを山内一弘監督に認めてもらえず、2軍暮らしが続いていた。25歳でプロ入りした落合にとって、選手生命にも影響しかねない危機的状況である。
だが、落合の才能を見抜いていた高畠コーチは、巨人から移籍してきた張本勲にも協力を求め、説得の末、山内監督に1軍で使うことを了承させた。それでも山内監督は、落合が2打席続けて凡退すると、3打席目に代打を送ろうとしたが、高畠コーチのアイコンタクトを受けた張本がベンチを出ようとする山内監督を引き留め、交代を思いとどまらせたことも1度ならずあったという。そして、もう1打席回ってきたチャンスで結果を出した落合は、プロ3年目に首位打者を獲得し、大打者への道を歩みはじめる。
西村をスイッチヒッターとして成功させるなど、育成面で多大な功績を挙げた高畠コーチだが、落合のように監督に評価されていない“大器”をあの手この手を駆使して試合に出させるのも、名伯楽の条件のひとつなのだと実感させられる。
最後は現職のヤクルト・杉村繁1軍打撃コーチを紹介する。
2000年、広報などのフロント業務から打撃コーチ補佐に転身。1軍打撃コーチ時代の04年秋、日本ハムに移籍した稲葉篤紀の後釜に青木宣親を育てるよう若松勉監督から命じられると、逆方向に強いライナーを打つ打法を指導し、青木を“安打製造機”として開花させた。
08年から11年までの横浜コーチ時代にも、それまで2割台の打者だった内川聖一の首位打者獲得に貢献し、新人時代の筒香嘉智の長打力にも磨きをかけた。
さらに13年のヤクルト復帰後も、2軍打撃コーチ時代に当時本塁打王が目標だった山田哲人に「足が速いから、広角にヒットを打ったほうが、長いこと野球界でできるんでは」と助言し、後の“トリプルスリー男”の礎を築いた。