稀代の天才打者・イチロー誕生の陰に、共同作業で振り子打法をつくり上げた河村健一郎2軍打撃コーチの存在があったように、球史に残る大打者は、名打撃コーチの手によって世に出た例が多い。多くの大打者を生み出した名伯楽たちを紹介する。
西武コーチ時代に清原和博、松井稼頭央、中島宏之、秋山翔吾らを育てたのが、土井正博だ。
1985年に西武2軍打撃コーチに就任すると、翌86年、「お前に任せたい選手がいる」という根本陸夫管理部長の要請で1軍打撃コーチに昇格。その選手は、ドラフト1位のスーパールーキー・清原だった。
近鉄時代に18歳で4番打者を務めた土井コーチが、同じ18歳のホームランバッターの育成を任されたのは、まさに運命的な出会いだった。
だが、教えるほうも実質1年生とあって、5月以降、清原が打ちはじめ、「新人王当確」と騒がれると、重圧を感じて一気に白髪が増えたという。清原も執拗に内角を攻められ、調子を崩してしまう。
そんな苦悩のさ中、「自分の18歳のときと比べてみろ。お前が一番わかるやろ」という根本管理部長の言葉で、「技術的なことばかりに頭がいっていた」と気づいた。
そして、3、4年後にトップクラスの打者になれるよう「ゆっくり育てたらいい」と気持ちを切り替えたのが功を奏し、同年、清原は新人史上最多タイの31本塁打、打率.304の好成績で見事新人王を獲得した。
土井コーチは89年シーズン途中、麻雀賭博問題で志半ばにしてチームを去るが、96年に西武の打撃コーチ復帰が決まると、清原はFA権行使を猶予し、西武で最後の1年を恩師とともに過ごしている。
若手時代の清原に死球の避け方を教えることができず、野球人生の後半でケガに泣かされたことを悔やんでいた土井コーチは、松井、中島、秋山らに防具をつけさせて打席に立たせ、内角球に対してギリギリまで体を開かない技術を伝授。内角攻めへの恐怖心を克服させ、打撃の幅を広げる指導法で、いずれも球界屈指の打者に育て上げた。