多言語演劇というのも巧妙な設定だと思った。日本語なら私たちには意味がわかる。だからつい意味を追ってしまう。それだけで「芝居を見た気」になる。でも、知らない言語で演じられると言葉の意味がわからない。私たちは俳優たちの微細な表情の変化や息づかいや声の響きに集中する他ない。それはストーリーを追うこととは別の種類の集中力を観客に求める。 

 さいわいベケットの「ゴドーを待ちながら」とチェーホフの「ワーニャ伯父さん」はよく知られた戯曲だから観客は台詞が聴き取れなくても、話が見えなくて困惑するということにはならない。観客はただ俳優の「フィジカル」に注目していればよい。というか、それしかすることがない。そのせいで、観客には物語の進行を高みから見物するという横着な構えが許されない。観客ひとりひとりが固有の仕方での「参与」を求められる。 

 台詞の多くを「聴き取ることができない」という設定そのものをアドバンテージとした映画が国際長編賞を受賞したのは、ある意味当然のことなのかもしれないと思った。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2022年4月25日号