哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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米アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した映画「ドライブ・マイ・カー」について、「この映画の魅力は何でしょう」というインタビューを受けた。
あれこれ話したが、すぐれたアイデアだと思ったのは、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を多言語(日本語、韓国語、中国語、手話など)で演じる舞台の稽古を軸に物語が進むという設定だった。村上春樹の原作でも主人公の俳優・家福が「ワーニャ伯父さん」の台詞(せりふ)を車内のカーステレオで練習するという場面はあるけれども、稽古と舞台を見せ場にしたのは映画の独創である。
「俳優が俳優を演じる」という設定からは独特のリアリティーが生まれる。というのは下手な役者が名優を演じることは原理的に不可能だし、逆に上手(うま)い役者がわざと大根役者を演じることもできないからだ(やれば「名演技」と絶賛されてしまう)。俳優が俳優を演じる時、それ以外の設定では見ることのできない独特な緊張感が生まれる。別に劇的な出来事が起きるわけではなくても観客は少しだけ前のめりになる。