白河藩の知行高は十一万石である。
藩士への知行に五万石分を支給していたとしたら、残りの直轄領六万石の年貢は、六公四民として三万六千石、金にしてほぼ三万六千両に相当する。
一方、二か月と十日で、金二千三百三十二両使うとしたら、年間では一万二千両ほどとなる。つまり、藩財政の三分の一以上が、老中になったことに伴う経費で消えるわけである。
老中というのは、とてつもなくお金がかかる役職だったことが分かる。
■勘定奉行に不正の疑いをかけられる
この状況は、白河藩の江戸勘定奉行から国元の勘定奉行に知らされた。国元の勘定奉行は肝をつぶすほど驚き、次のように考えた。
<御老中仰せ付けられ候へバ、何と申し候てもちとハ御金も入り申すべく候。此様ニ御物入御座候ハ不審千万、是ハ定て公辺向ニ懸り候役人之私欲有るべし>
(御老中を拝命したのならば、何と言っても少しは御金も入るだろう。このように御物入があるのは不審千万、これはおそらく幕府関係の仕事にあたる役人の横領があるに違いない)
報告を受けた首席国家老の吉村又右衛門を始め、家老や諸役人が城に寄り合って相談し、不審の趣意を訴状にして定信に提出した。
定信は、藩の役人が疑うのももっともだと、九月上旬に郡代(ぐんだい)を江戸に呼び寄せ、十二月中旬まで江戸に務めさせた。郡代は勘定奉行配下の役人である。
すると、幕府関係の仕事にあたる役人にも、勘定方の役人にも不正私曲がないにもかかわらず、出費が多いことが郡代にも納得できた。
日々の登城、将軍の名代としての役務、そのほか何につけてもお金がいり、さらに定信登城前には屋敷に大勢の客が来て、その応接にもお金がかかる。
定信は、老中の職務の実態を郡代に見せ、国家老の吉村らの疑いを晴らそうとしたのだった。
このように、老中を務めるには、並大抵の大名では藩庫が空になるほど大変だったのである。
■必要経費を賄賂で賄う
老中の職がこうした不合理なものであっても、それまで長年の間、同じようにして譜代大名が務めてきた。それは、吉村らも考えたように、「少しは御金も入る」ことがあったからだろう。