些細なことといえば、些細なことだ。人によっては、取るに足らないことかもしれない。だが時を同じくしてコロナが蔓延し始め、Aさんが働く旅館も客足がぱたっと止まった。多くの人がそうであったように、いろんなことを考える時間ができた。仕事、働き方、お金、時間、家族、自分——。これから自分はどう生きたいのか、考える日々が続いた。
■賃金は旅館の半分以下でも「ペースを落とし、その時間を好きなことに」
転機は、友人からの紹介だった。自宅近くにある某飲食チェーン店が、アルバイト従業員を募集しているという。賃金を考えると、旅館の半分以下だ。だがシフト申請は自分次第で調整できることから、まとめて働くこともできれば、月によっては少なめに働くこともできる。自分に合った働き方を試せるかもしれないし、「休みたい時に休める環境」というのも大きい。周囲からは収入の面で心配する声が多かったが、幸いなことに住まいは結婚前に格安で手にいれた中古の持ち家で、すでにローン返済は終わっている。
夫の収入は、月に20万円程度。自営業であるがゆえに、一定の収入が確実に保たれるわけではない。だがAさんの収入と合わせたら、日々の暮らしを営む生活費に、少しだけ貯金ができるぐらいの余裕もある。「贅沢しなければやっていける、十分だ」と思えた。
夫は49歳。仮に体が元気に動くのが70歳までとすると、自由な生活を謳歌できるのは残り20年ほどという計算になる。世間一般の物差しで見ると、舵を着るには早すぎるのかもしれないが、そろそろ仕事中心という生活の軸を変えても良いのではと思った。
「少しペースを落として、その分できた時間で、好きなことをやって暮らそう」
夫もそう言って背中を押し、Aさんは慣れ親しんだ旅館の仕事を後にした。
Aさんは現在、その飲食チェーン店で朝7時~13時まで、週に4日、アルバイトとして働いている。旅館に勤務していたときは、週に5~6日、15時~24時の間で働くことが多かったから、随分と楽になった。仕事がある日も、午後は丸ごと自分の時間だ。時間のゆとりが、こんなにも充実感と幸福感をもたらせてくれるとは思わなかった。