鶴見区の沖縄タウンにある創業36年の「おきなわ物産センター」。沖縄の食材や物品がそろい、地域の憩いの場にもなっている(撮影/写真映像部・東川哲也)
鶴見区の沖縄タウンにある創業36年の「おきなわ物産センター」。沖縄の食材や物品がそろい、地域の憩いの場にもなっている(撮影/写真映像部・東川哲也)

「お前ええかっこするな、沖縄人やろが。沖縄のことせんで朝鮮のことすんな」

「自分は何者なのか」と自問自答を続けていたとき、大阪市内のイベントで同年代の沖縄出身者たちと知り合った。彼らが中心になり、74年に結成した「がじゅまるの会」(現がじまるの会)に金城さんも参加。自分たちの文化への自信を取り戻そうと、同会が75年に大正区で開催したのが「エイサー祭り」だ。

■「リキジン」と呼ばれて

 このとき会場から「沖縄の恥さらし」と怒鳴り、石を投げてくる人がいた。親世代の沖縄出身者だった。金城さんは、差別から逃れるため、「沖縄を隠してきた」世代との距離をあらためて感じたという。

 だが、この言葉が先人の足跡をたどるエネルギーになる。

「最初は、沖縄人としての誇りを失っているのか、と反発を感じました。しかし、よく考えると、沖縄人としての自覚を失っていないからこそ、『恥さらし』という言葉が出てきたのだと気づいたんです」(金城さん)

 28年に尼崎市で生まれた、金城さんの父親は、よりダイレクトに沖縄差別を体験した世代だ。「リキジン」と呼ばれていじめられた記憶を鮮明に焼き付けていたという。

「琉球人を縮めた言い方です。親父はそう呼ばれたときの悔しさをずっと抱えていました」

「琉球人お断り」の貼り紙が出され、就職もアパートを借りるのも差別を受けた。そうした日本人の差別にさらされ、助け合って生きるしかなかったため、各地に沖縄出身者のコミュニティーが作られたのだ。

■名字を沖縄読みに戻す

 大正区で開いたエイサーに「恥さらし」と叫んだ親世代の沖縄出身者の内面は、日本社会の差別と暴力によって生み出されたものだ。その事実を踏まえた上で、先人たちの間違いを「違い」として受け止めていく必要がある、と金城さんは考えた。

 沖縄出身者はかつて、沖縄固有の名字を日本っぽく改めたり、読み方を変えたりすることも少なくなかった。

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