■ 泥沼化したチェチェン戦争でロシアの犯罪性を告発
ムラトフ氏は32歳で仲間と「ノーバヤ・ガゼータ」を創刊した(1993年)。記者としてチェチェン戦争取材にのめりこんだ。チェチェンはロシア連邦南部のイスラム教徒の共和国。独立運動弾圧などのためロシア連邦軍が侵攻した(第1次チェチェン戦争 1994-1996年、第2次チェチェン戦争 1999-2009年)。チェチェン人の抵抗で戦いは泥沼化した。
ムラトフ氏は95年、「戦争犯罪が隠蔽されそうだ」という見出しの次のような記事を書いた。
「ドミトリー・ムラトフ チェチェン発 戦争はチェチェンの反逆者にではなく、一般住民に対し行われている。ロシアの国防大臣は『戦車で街を攻撃しない』と言ったが、攻撃した。住民は地下室にいて外へ出られない。軍司令官は『戦略目標しか爆撃しない』と言ったが、病院も学校もがれきになった」。
民間人を攻撃し、丸ごと街を破壊する「戦法」はチェチェンで生まれた。シリアへの軍事介入(2015年-)に引き継がれ、今、ウクライナで「適用」されているといえるだろう。そのロシアの戦法の犯罪性を最初に告発した記者の一人がムラトフ氏だったのだ。
記事で、重症を負った兵士や捕虜になった兵士を帰還させるよう訴えた。兵士の家族が記事で安否に気付けるよう、兵士を実名で報じた。
「記者はエンパシー(共感力)が大切」
これがムラトフ氏の取材ポリシーであり、1995年、編集長に就任してからも変わらない姿勢だ。ただ、部下について「前進することしか知らない記者がいて苦労した」ともいう。
2006年、アンナ・ポリトコフスカヤ記者が自宅アパート建物のエレベーター内で射殺された。ノーバヤ・ガゼータによると、実行犯は秘密警察とつながったチェチェンの人間だった。ムラトフ氏は編集部に命じ、黒幕が誰か独自に調査を始めた。とんでもないことが分かった。別の男性記者を殺す計画が存在していたのだ。「僕は交渉して、『しばらくチェチェンの記事は出さない』と約束した」と地元メディアに語った。交渉相手はチェチェンのマフィア組織とみられる。