日本には文豪と呼ばれる作家がいた。文章や生きざまで読者を魅了し、社会に大きな影響を与えた。だが、彼らも一人の人間である。どんな性格だったのか。どのような生活を送っていたのか。子孫に話を聞き、“素顔”をシリーズで紹介していく。第3回は数多くの作品を生み出しただけでなく、作家たちが活躍できる雑誌や、作品と作家を顕彰する文学賞まで作り上げた菊池寛。
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「人間は生きている間に、充分仕事もし、充分生活もたのしんで置けば、安心して死なれるのではないかと思う」
この言葉を残し、そのとおりに生き抜いたのが菊池寛である。菊池は劇作家、ジャーナリストとしても知られ、さらに雑誌「文藝春秋」を創刊し、初めての文学賞である芥川龍之介賞、直木三十五賞を創設した。
「じいさんは人を面白がらせることが好きで、そうすることが自分も面白いと感じていたようです」
菊池寛の孫の菊池夏樹さんは楽しそうに話す。数々の経歴を見ると、菊池は成功への道を突き進んだかのように見える。
「じつはうちのじいさんは苦難の連続でした」と夏樹さんはしみじみと言う。
菊池家は高松藩の儒学者の家柄であったが没落し、菊池は高等小学校へ入学しても教科書が買えないほど貧しく、友人の教科書を写していた。ただ成績は優秀だった。学費免除の東京高等師範学校へ進んだが、教師になりたくないと授業を受けず除籍。その後、第一高等学校第一部(現東京大学教養学部)に入学するも卒業間際に、盗品と知らずに友人から託されたマントを質に入れた「マント事件」により退学を余儀なくされた。
東京帝国大学への進学を望むが、この件により、当時の文科大学長が菊池を拒絶。東大入学という夢はかなわなかった。京都帝国大学文学部に入学したが、京都での日々も楽しいものではなかったようだ。
「京都に於ける私の生活は、殆ど孤独であったと云ってもよい。クラスの人にも友達と云うべきものはなかった」(「半自叙伝」から)