選手とのコミュニケーションはリスペクトが前提。「今の選手は本当に上手いですよ。僕は海外でプレーしたことも無い。だからヨーロッパを知る彼らから学んでいます」(撮影/今祥雄)

 現役時代、ともに日の丸を背負って戦った福田正博はこんなふうに言った。

「あの厳しい環境で監督が出来るのは森保だけじゃないかと思いますね。それは彼が底辺からトップを経験した唯一の代表選手だったからですよ」

 すでに代表試合数を重ねていた福田が初めて森保と出会ったのは、1992年に浜松で行われた代表合宿だった。各年代ごとの代表に一度も呼ばれたことが無い、全く無名の森保を当時の代表監督ハンス・オフトが抜擢(ばってき)したのである。

 福田はその新顔のプレーを見ていたが、足が速いわけでも身体能力や技術に長(た)けているわけでもない、平凡な選手だという印象しか持てなかった。それがやがて自身も同じ中盤のポジションにコンバートされると、なぜ森保をオフトが招集したのか、理解できるようになっていく。

「オシムさんが言った『水を運ぶ選手』ですよ。ファンタジスタだけではサッカーは勝てない。チームのために泥にまみれる選手が中盤の底に必要だった。そこに森保はぴったりだったんですね。彼は自分の能力を客観的に見ることが出来たんです。そして選手として自分の出来ることと出来ないことを腑(ふ)分けしていたんです」

 全力でセカンドボールを拾う。奪取したら、必ずキープできる選手に預けて、その後ろでサポートに入ってパスコースを作る。チームでの役割を考え、生き残るためにやれることを極めていった結果、代表に欠かせない守備的MFの道を切り開いていった。そのプロセスを見ていた福田は言う。

「コロナ以前に、現役時代から、上手くいかないときに言い訳したり、環境のせいにしたりは絶対にしなかった。エリートでないから、努力している選手の気持ちが分かるし、自分への批判を素直に聞いて、前を向くパワーに変えられるんです」

 底辺から、W杯出場を決めた代表監督へ。その軌跡を高校時代からたどってみる。

 高校2年の年の瀬。森保が在籍する長崎日大高の監督・下田規貴は、マツダSCの総監督であった今西和男に宛てた年賀状に1行書き加えるのを忘れなかった。「一度見てやって頂きたい選手がいます」。下田は、何とか森保に卒業後もサッカーを続けさせてやりたかった。当時の長崎の高校サッカー界は、島原商で全国制覇を成し遂げた小嶺忠敏率いる国見が図抜けた存在であった。長崎日大高の森保は国体選抜チームに選出はされていたが、そこでの出場機会を得ることは無かった。このまま引退しても誰も気に留めさえしない存在だった。それでも毎試合ごとに自分のプレーの良しあしを必ず聞きに来る森保の向上心を費やしたくなかった下田は、旧知の今西に練習視察を依頼したのである。

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