帰宅する通勤者で賑わう山元町停留所の夏景色。横浜市電の3扉車は正面バンパーに「中央入口車」の標記があり、混雑時には中央扉からの乗車を奨励していた。(撮影/諸河久:1969年8月17日)
帰宅する通勤者で賑わう山元町停留所の夏景色。横浜市電の3扉車は正面バンパーに「中央入口車」の標記があり、混雑時には中央扉からの乗車を奨励していた。(撮影/諸河久:1969年8月17日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。夏の季節にちなんだ「路面電車 夏の足跡」の第二回目をお送りしよう。

【美しいアーチ下で路面電車が行き交う光景など、当時の貴重な写真はこちら(全4枚)】

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 夏の太陽が輝く都会の街角を一陣の涼風のように走り去った路面電車たち。各地に残した足跡を夏の風情と共に回顧したい。ハマ風が心地よい横浜の街を走った「横浜市交通局(以下横浜市電)」の路面電車の話題を続けよう。

山元町の市電終点風景

 冒頭のカットが長者町線(西平沼橋~山元町/3500m)山元町停留所の終点風景。旧盆の厳しい残暑がようやく収まった夕刻、勤務先の下町から山手の住居に帰宅する乗客を降ろし、洲崎神社前行きとして折り返しを待つ3系統の市電。

 3系統は生麦を起点にして高島町~西平沼橋~長者町五丁目を経て山元町に至る9570mの路線だった。1966年3月に神奈川線(野毛大通~生麦/6900m)のうち洲崎神社前~生麦4100mが廃止され、起点が洲崎神社前に変更された時期の撮影だった。

夏の午後、美しいアーチを描く打越橋の下で離合する3系統洲崎神社前行きと山元町行きの市電。この坂道を下った左側に「打越の霊泉」が所在する。石川町五丁目~山元町(撮影/諸河久:1969年8月17日)
夏の午後、美しいアーチを描く打越橋の下で離合する3系統洲崎神社前行きと山元町行きの市電。この坂道を下った左側に「打越の霊泉」が所在する。石川町五丁目~山元町(撮影/諸河久:1969年8月17日)

 3系統はさらに洲崎神社前~横浜駅前が1969年10月に廃止されたため、横浜駅前~山元町4670mの運転に短縮された。

 写真の1300型は戦後の物資不足に対応する標準設計路面電車だった。1947年汽車製造製で車体長13.62m、3扉仕様で定員120(36)名(カッコ内は座席定員)の大型ボギー車。戦後の混乱期に量産された30両が、逼迫した輸送需要のカンフル剤として活躍した。

 余談だが、1300型と同系の大阪市電1711型は日立製作所と若松車輛で1947年に40両が量産されている。車体長は13.7mと僅差だが、定員は94(40)名とだいぶ少ない。横浜と大阪では定員の算出基準が違うのか、とも思われる。

 次のカットは、美しいアーチを描く「打越橋」橋下で行き交う3系統の市電。横浜駅根岸道路に敷設された長者町線は長者町一丁目から上り坂となり、頭上の打越橋を過ぎて右折したところに終点の山元町停留所があった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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