この時期、清子さんは、美智子さまを懸命に支える役目を担っており、これ以上言及することはなかった。
皇后バッシングについて、清子さんが再び思いを口にしたのは、10年後である。
2005(平成17)年4月、黒田清子さんは36歳の誕生日を迎えた。黒田慶樹さんとの結婚をひかえ、内親王として最後の誕生日であった。記者からの質問に答えた文書回答は、400字詰の原稿用紙24枚分、9000字を超えるボリュームだった。
注目されたのは、美智子さまが声を失った悲しみに触れた箇所だ。
<両陛下のお姿から学んだことは、悲しみの折にもありました。事実に基づかない多くの批判にさらされ、平成5年ご誕辰(たんしん)の朝、皇后さまは耐え難いお疲れとお悲しみの中で倒れられ、言葉を失われました。
当時のことは私にとり、まだ言葉でまとめられない思いがございますが、振り返ると、暗い井戸の中にいたようなあの日々のこと自体よりも、誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすらに生きておられた皇后さまのご様子が浮かび、胸が痛みます。
私が日ごろからとても強く感じているのは、皇后さまの人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようと思うお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、そうした多くは、誰に頼ることなくご自身で癒やされるしかないものもあったと思いますし、口にはされませんが、未だに癒えない傷みも持っておられるのではないかと感じられることもあります>
清子さんは、深い教養と見識をもちながらも春風のような温かさを持ち合わせた内親王であった。この文章も、美智子さまを批判した相手を強く責めてはいない。それでも、バッシング報道に苦しみながらも批判する相手を理解しようと努め、平成の天皇、皇后として歩むご両親の生き方が伝わるものだった。
紀宮時代から清子さんを知る記者や宮内庁関係者らは、「清子さんに対する批判の声を、聞いたことはなかった」と口をそろえる。