「さん」を付けると身近にいる人、話し手が直接知っている人、というニュアンスが生じます。『自分の実生活とは直接関わりのない、客観的な存在、例えば、歴史上の人物などには、「さん」を付けず、呼び捨てにするのが一般的です』と、NHKのサイトにも解説があります。私も出版業界という、著名人と知り合いの境が時に重なる業界にいるため、基本的に「さん」は直接知っている人にしか付けないことにしています。
最近、アメリカの書店員にインタビューした記事を英語から日本語に訳す仕事をしたのですが、このときも「さん」付け問題に悩まされました。記事には故人・生人、古今東西、有名・無名を問わず実にさまざまな作家名が登場するのですが、どの人に「さん」を付けてどの人には付けないか、その線引が非常に難しかったのです。たとえば現在活躍中の若い日本人作家を呼び捨てするのはちょっとそっけない感じがする。ただ、同じく存命で活躍しているアメリカの作家に「さん」を付けるのはなんだか不自然。これって異国の作家には身近さを抱かないっていう偏見? と自分が嫌になったり。原文の英語はどの作家名も呼び捨てですから、これは和訳するときにしか生じない問題です。ああ、日本語メンドクサイ!
ただ英語にも「さん」付け問題は存在します。むしろ、誰にでも「さん」を付けておけばまあ間違いはない日本語よりもメンドクサイかもしれません。英語の敬称は、性別によってMr/Msと使い分けることになっています。最近は本人が自認する性別に従って呼ぶのかと思えば、Mr/Msどころか女性をMiss/Mrs と呼び分ける地域も未だにあります。我が家は最近までアメリカの中でも保守的といわれるアラバマ州に住んでいたのですが、長女の保育園の先生はMrs〇〇と呼び、先生の言葉には「Yes, Ma’am」(男性にはYes, Sir)と答えるよう指導されていました。でもアラバマ以外の地域ではそれをかえって嫌がる人もいるので、ややこしいところです。
つまり、日本語も英語もどっちもメンドクサイ。敬称には話し手の自分が相手を社会的にどう見ているかが反映されるので、面倒くさいを通り越して恐ろしくもあります。でも社会的なものだからこそ、呼ばれる本人は個人的には気にしなくていいのかもしれません。だって無人島にひとり暮らしていたら、自分は「くん」と呼ばれたいのか「ちゃん」と呼ばれたいのか、それとも呼び捨てか……なんて考えないし、そもそも人にどう呼ばれようが、自分本来の性質は変わらないはずです。
そんなことを英語話者である夫につらつら話していたら、夫はこう言いました。「いや、僕は日本語の敬称って本人の性格まで変えてしまう気がする。『〇〇くん』と呼ばれるのと『〇〇さん』と呼ばれるのでは、自分は気分が変わる。だから息子も『〇〇くん、ちゃんじゃないもん!』と主張したのではないかな」。ふうむ、そういうものか。ではあなたは「くん」と「さん」、どっちで呼ばれるのが好きなの? そう尋ねると、夫は少し考えてから答えました。「『さま』かな。君も今日から呼んでくれていいよ、〇〇さまって」。いいえ、絶対に呼びません。
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