ストレートな物言いに引き込まれる。中村さんの半生を振り返ろう。
東京・浅草で生まれ育った。10代で結婚、出産。育児に追われていたとき、世界中の児童書を読みあさるうち、もともと本好きだった中村さんの「学びの欲求」に火がつく。政治や社会への関心が深まるとともに、街頭に出て右から左まであらゆる団体の演説を聴いて回った。
最初に興味を抱いた団体の一つが共産党だった。が、すぐに矛盾を感じた。
「普段から『男女平等』や『女性の飛躍』を口にする人たちが、親睦会になると上座に男性が座り、女性は配膳を、みたいな感じになる」
一方で、右翼は伝統的価値に忠実で、裏表がないと感じた。年金問題をめぐって政府に批判が集まっていたとき、ある右翼幹部は「年金に頼らず子どもが両親を食わせるべきだ」と唱えた。中村さんが「自分が年金受給者になったとき、子どもに世話を強いることにならないか」と質問すると、「どうしても面倒を見たいと思われるような立派な親になればいい」と諭された。
「すごいな、この人たちは、と。演説がそもそも乱暴だから、親睦会でもウソ偽りが少ないように見えた。ダメな人間がダメなりに頑張っているみたいな感じもあって、私は江戸っ子だから、そういう世界に親和性を感じたんです」
1998年に右翼団体の門をたたく。当時18歳。最も情熱を注いだのは北朝鮮の拉致問題だ。拉致被害者の母・横田早紀江さんに直接会ったこともある。
「小柄な早紀江さんが一生懸命頑張って自分の子どもを救おうとしている。自分だったらどうするだろうか、とずっと突きつけられた課題でした」
だが、拉致問題はなかなか解決に向かわない。原因を突き詰めると、「アメリカ」にたどり着いた。拉致被害者を取り戻すには最終的には対話による国交正常化しかない。それができないのは、米国の対北朝鮮政策に日本の政府もメディアも縛られているからではないか。そう考えるといろんなことが腑に落ちた。