20年近く右翼の世界を内側から見てきた中村さんは、その変化を目の当たりにしたという。

「言葉がどんどん軽くなって、総括も反省もしないのが当たり前になった。右翼はもともと対話を重視し、かつては中国共産党の革命家とも議論を深めてきた。でも今は、暴力でなんでも解決できるみたいな感じになっていると感じます」

 右翼団体を脱退する決定打は「日米安保や沖縄に関する見解の相違」だったという。

「私が右翼団体に入った1990年代後半は自主国防を掲げ、日米安保破棄、米軍基地反対でした。それが従属的な親米路線に変わり、ヘイトスピーチにも便乗し始めた。自分が間違っていた場合、死ななきゃいけないのが右翼の鉄則だと聞いてきました。みんな死にたくないから、歴史をねじ曲げて自分を正当化するわけです。これはもう右翼とはいえない、と考えるようになりました」

 右翼団体を除名処分になった仲間とともに、「花瑛(かえい)塾」を設立したのは2016年。真の愛国を取り戻す「愛国奪還」を掲げ、活動期間は5年と決めた。中村さんは結成とともに沖縄に通い始める。

「再出発するなら、ずっとやりたかった沖縄のことに重点を置いた運動がしたいと思いました」

 沖縄とのかかわりは、19歳のときに東京で知り合った同い年の沖縄出身の友人が原点だ。彼女は会うと、常に「戦争」について語った。誰かを糾弾したり、なじったりするのではなく、ポツリ、ポツリと語る米軍や沖縄戦に関するイメージや記憶、感慨。そんな乾いた言葉の断片が妙に心に刺さった。「沖縄を無視しているおまえは右翼として正しいのか」と静かにまっすぐ、問い詰められているようにも感じた。

 沖縄ではほとんどの時間を、当時ヘリパッド建設が進んでいた東村の米軍北部訓練場のメインゲート前での演説に費やした。戦闘服姿で拡声器を担ぎ、たった一人で「基地撤去」を語りかける。そのスタイルは野伏のような異彩を放った。

 2018年12月に辺野古に土砂が投入されたときは抗議船に乗り込んだ。どうすれば工事を止められるか、ということばかり考えていた。ただ、本土出身者が基地反対運動に加わることには違和感を覚えたという。

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