「撮りに行っている」って感じがする写真がすごく嫌
この20年間、絶え間なくどこかの地方に通ってきた。一つの作品をつくり上げるのに同じ地域や街を繰り返し訪れるという。
最初の2、3回目は行って帰ってくるだけで終わってしまう。地元の空気というか、「ペースにちょっと慣れてくるのは10回目くらい。ああ、こんなところ地元の人しか行かない温泉があるんだ、町営バスが出ているんだ、とか。回数を重ねると土地勘がなんとなく体の中に入ってくる」。
そんなわけで、「20回くらいは行きますね」と言うのだが、毎回展覧会は「最後に撮ったところからさかのぼって、3回ぶんくらいの写真でやっています。その前に撮ったのはよほどのことがないとボツ、全部捨てる感じ。だから、生産性はすごく悪い」(笑)。
その理由について、こう説明する。
「『撮りに行っている』って感じがする写真がすごく嫌なんです。こういうところに行ったら、こんなものが撮れるかもしれないと予想できるような写真は白けちゃう。必ずピークは撮らないようにしよう、ということはいつも頭にあります」
柳本さんが魅力を感じるのは「目的がはっきりとしないように見える写真、写真でしかない写真」。その言葉を聞くと、先入観や被写体にまとわりつく意味を排して写した中平卓馬の作品が思い浮かんだ。
ちなみに、冒頭に触れたつげは、自分自身を無常の存在にすぎないと感じていた一方、旅で訪れた村の暮らしぶりにその思いを投影し、自分もそこで暮らしたいという願望を持っていた。実は柳本さんも同じような思いを抱いているという。
「自分も実家がここにあったら、ここに住んで、そういう生活をしているんだろうな、という思いはありますね。それはあこがれでもあります。例えば、漁師とか。そういう生活。実際にはできないんですけれど、そこにいるときは疑似体験をさせてもらっている、というか。自分を表現するのではなくて、ちょっと寄り添わせてもらう道具としてカメラを使う感じで入っていくというか。そういうところはあります」
(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
【MEMO】柳本史歩写真展「Your Village」
オリンパスギャラリー東京 2月18日~3月1日