それ以降、やはり悩みつつも、富士山の断片をパズルのピースのように拾い集め、カメラに収めていった。
「噴火の歴史をひもといて、現地を訪れる。そこでどんな現象が起こったのか、地層に堆積した原始の記憶に立ち返り、それを拾ってくるような感じです」
山頂との往復を繰り返すだけでなく、広大な裾野に張り巡らされた林道をひたすら歩いた。樹海にも足を運び、そこにある溶岩洞窟の奥深くまでもぐった。
「その場に流れているもの、もしくは、場、そのものと同化していくような感覚。千日回峰行のように、ひたすら山を越えていくと、何かの領域にたどり着くような。自分の意識下で何かを撮りたいというよりは、無意識の領域に近いところに流れている意識、と言ったらいいでしょうか」
そして、「何か『いい』と思った瞬間、それを言語化する手前の段階でシャッターを切るんです。そのほうが、写真が動き出す感じがある。言葉に染まらないような、いつでも新鮮な感触。何かを語りかけそうな雰囲気。言葉にできる情報が多すぎると、そこで写真が完結してしまう感じがする」。
水面下に沈む氷山のような無意識領域を作品化する
インタビューは2時間を超え、佐藤さんは無意識と作品性との関係をとめどなく話し続けた。
でも、正直に言うと、そのときの私は「無意識にシャッターを切る」という説明にかなり困惑していた。被写体にレンズを向けるのも、シャッターを切るのも「判断」であり、それを無意識に行うというのは、ありえないでしょう、と。
とはいっても、私には佐藤さんの熱弁を「根拠のない話」と言い切れるだけの自信もなかった。
そこで改めて調べてみると、私たちの日常の行動のかなりの部分は無意識に行われていることを知った。それが現代の脳科学の世界では常識らしい。
例えば、話をする際、文法の組み立てを意識することなく自然に言葉が出てくるのは、そのつながりを脳の無意識領域が自動的に処理してくれるからだ(だから、無意識にやってしまうクセはなかなか直らない)。
さらに、斬新な視点や新しいアイデアが生まれる際も、この無意識領域が深く関与しているという。
寝ている間にハッとひらめいて目が覚めたり、歩いているときにいいアイデアが思い浮かぶのは、他のことをしているときにも脳が知らぬ間にそのことを考えてくれるおかげだ。ただし、ふだんから一生懸命に考えを巡らせ、記憶として熟成されていないと、この機能はあまり働かない。
そういえば、佐藤さんは「氷山の沈んだ部分に眠ったような意識を開くことで、新しい表現の可能性にチャレンジしたい」と語っていた。
確かに、脳の働きを氷山に例えると、意識して行う「論理的思考」は氷山の一角にすぎず、水面下の無意識領域で行われる情報処理の量はそれよりもはるかに多い。
なるほど、そう考えれば、つじつまが合ってくる。つまり、こうだ。佐藤さんは日々、富士山を撮ることを考え続け、それが脳の無意識領域に地層のように降り積もった。現地を歩いているとき、何かの光景を目にした瞬間、脳内の富士山マグマの圧力が高まり、地層がひび割れ、噴き出すようにひらめき、それについて考えをまとめる前にシャッターを切る。
そうか、そうだったのか! 本人も気づかぬ間に佐藤さん自身が富士山化していたのである。
(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
【MEMO】佐藤友昭写真展「時の記憶」
エプサイトギャラリー(東京・丸の内)
1月6日~1月19日開催