写真家は外に出ないと始まらないでしょう
ところが、インタビュー開始から30分ほどたったときだった。それまで理路整然と話し続けてきた初沢さんが黙り込んだ。そして、言葉を絞り出すように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「それにしても不思議だったのは、この状況を撮っている人がぜんぜんいなかったこと。もっとたくさんの人が撮ると思っていましたよ。いろいろな人が、それぞれの違う視点で写したら面白いなと思っていたのに。書店に置かれるような本になったのは2冊だけでしょう。もっと出るかな、と思っていた」
――初沢さんと時津剛さんの写真集ですね。
「うん。やっぱり、難しかったと思うんですよ。『コロナ禍を撮る』ということが。そもそもコロナって、写らないものですから」
そう話すと、初沢さんはまた沈黙した。
写真家は、同じテーマを撮るほかの写真家の作品を誰よりも鋭い目で見ている。インタビュー中、「時津さんの秋葉原の写真には負けましたね。本人にも言いましたけれど、これはすごい一枚」と、語るライバル意識。そして、連帯感。その仲間が少ない寂しさ。
初沢さんが再び口を開いた。
「99%の写真家を敵に回すことになるので、あまり言わないですけれど……カメラを持つ人間が、この歴史的な状況を撮りたくならないものかな、と。音楽家とか、陶芸家、小説家は、家にこもって作品をつくりますけれど、『写真家は外に出ないと始まらないでしょう』と、内心は思っています」
カメラを持たずに歩いていたら何も見えてこない
最初はコロナ禍ではなく、オリンピックイヤーの東京を写すつもりだった。東京を撮るのは2000年から1年半、東京新聞で連載したフォトエッセー「東京ポエジー」以来だった。
振り返ってみれば10年以降、北朝鮮、沖縄、東北の被災地と、「東京から見た日本の周縁をずっとたどってきた」。それは10年間にわたる長い旅のようでもあったという。
「そろそろ自分の拠点である東京をもう一回、撮ってみるべきでは、と思っていたんです。でも、なかなか重い腰が上がらなかった」
日々暮らす場所で、改めてきちんとものを見ることの大変さ。見慣れた街を撮ることの難しさに躊躇した。
それでも、「カメラを持たずに歩いていたら、何も見えてきませんから」。20年ぶりに東京を写し始めた。
「1月中はウォーミングアップ期間」。それを過ぎると、「だんだんアンテナが張れてきたというか、見えてきた。何があってもぱっと反応して、カメラを向けてシャッターを切ることに慣れてきた」。東京が「現場になってきた」。
コロナ禍を意識して写すようになってきたのもこのころだった。「どこかにターニングポイントがあったわけではなく、もう流れ」だった。