独立を決めた宇賀が報告したとき、池上は「きっとできますよ。そうしてごらんなさい」と背中を押してくれた。高校の先輩であり、フリーランスの大先輩である池上の励ましは何より心強いエールだった(撮影/山本倫子)

田中将大の取材では楽天カラーの服で臨む

 興味を持ったら即行動。仲間とエンターテインメントサークルを結成し、ワールドカップ観戦などのイベントを企画、一緒によく旅行もした。恋愛でつらい時期があっても、くよくよ悩むことはない。そんな宇賀がいつになく落ち込んだのは、就職活動で、あるテレビ局に落ちたときだった。

 もともとマスコミ業界を志望していたが、たまたまアナウンサーの体験セミナーに参加すると思いのほか楽しく、ダメもとでテレビ局を受験。だが、落ちたショックは大きく、「私、本当にアナウンサーになりたいんだ!」と初めて気づいた。

 落ち込む宇賀の背中を押したのは、林だった。学内でばったり会った2人は、おしゃべりするうちに「今から温泉へ行こう」と、そのまま鬼怒川へ。温泉に入り、林と話すうちに、宇賀は別のテレビ局も受験しようと思えるようになる。東京へ帰り、すぐにテレビ朝日へ願書を出した。1千人を超える学生が筆記試験を受験、アナウンサーの合格者は4人という難関をくぐり抜けた。

 09年4月1日、宇賀は入社初日の夜、どしゃぶりの雨で雷も鳴る悪天候のもと、東京・六本木ヒルズにある毛利庭園に立っていた。看板番組の「報道ステーション」の気象キャスターに抜擢されたのだ。高まる不安をこらえ、ずぶ濡れのスタッフを前に心を込めて天気を報じた。「シンデレラ・アナ」と呼ばれた宇賀のまさに桜吹雪舞う夜のデビューだった。

 11年夏からは「報道ステーション」でスポーツキャスターを務めることになるが、「実は12球団を全部言えず、ライトとレフトがどちらかわからない。サッカーのオフサイドも知らなくて」というほど、スポーツに関して知識がなかった。

 毎日スポーツ新聞6紙を読み、わからないところは赤線を引いて、自分で調べて覚えていく。週2回は仕事前に神宮や横浜など各スタジアムへ通い、注目カードの試合を観戦する。最初は現場へ一人でぽつんと入っていくのが怖かったが、通い続けるうちに監督や選手から話しかけてもらえるようになる。スタッフと信頼関係が築かれていく中で、取材もだんだん楽しくなっていった。

 プロ野球界で最初に取材したのが、当時、東北楽天ゴールデンイーグルスにいた田中将大(31)だ。

「40分という長いインタビューは初めての経験でした。私はとりあえず話の取っ掛かりを作ろうと思い、えんじ色のカーディガンを着ていき、『楽天カラーで来たんです』と(笑)」

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