普段は東京暮らし。「ニューヨーク・タイムズ」など海外の新聞や雑誌社から依頼されるニュース取材の撮影もあり忙しい毎日だが、ときおり山梨県北杜市にあるセカンドハウスで息抜き。近くには両親が住み、家族団らんで過ごす時間も(撮影/小山幸佑)
普段は東京暮らし。「ニューヨーク・タイムズ」など海外の新聞や雑誌社から依頼されるニュース取材の撮影もあり忙しい毎日だが、ときおり山梨県北杜市にあるセカンドハウスで息抜き。近くには両親が住み、家族団らんで過ごす時間も(撮影/小山幸佑)

■写真のことはほぼ知らず、ガンビアの新聞社で働く

 22歳の春、アフリカ政治の担当教授が募集していた西アフリカのガンビア共和国での研修に参加したことが、林の大きな転機となる。2週間のツアーは国会や裁判所の見学など予定通り終わったが、ガンビアをもっと知ろうと、そのまま帰国せず一人だけ滞在を延長したのだ。

 受け入れてくれる先を探すために「国連事務所や現地のNGOなどに片っ端から電話をかけまくり」、初めに見つかったのは小学校のボランティア。授業で子どもたちに英語を教えた。だが、ガンビアを知るためには他の経験をしたほうがいいと思い直す。当時のガンビアは独裁政権下で報道の自由がほとんどなかった。そこで働く記者たちがどんなことを考えているのか知りたかった。「働くなら報道機関だ」。そう考えた林は地元の新聞社「ザ・ポイント」にアポイントなしで出向き、編集長に面会するや否や、ここで働きたいと直談判した。

 日本人の学生からいきなり仕事が欲しいといわれた編集長も驚いただろう。「何ができるの?」と尋ねられた林は咄嗟に「写真が撮れます」と答えた。カメラは、留学するときに買ったニコンの一眼レフ「FM3A」を持っていた。だが、写真のことなどシャッターボタンを押せば写るぐらいしか分かっておらず、写真を撮ったことすらほとんどなかった。それでも、そのときザ・ポイントに社員カメラマンがいなかったこともあり、「お金は要らないからとにかく経験がしたい」と熱心に訴えると採用になった。こうして林典子の写真家としての一歩が始まった。

 翌日から記者と一緒に現場へ出て、撮影する日々が始まった。初めて大きく写真が載ったのはアフリカ系アメリカ人のビューティーコンテスト。中面に6枚ぐらい載り、素直に嬉しかった。この頃はまだ写真で食べていこうという考えはなかったが、カメラを介することで人々の生活に深く関われることに気がついた。

 日本への一時帰国を挟み、大学を休学して翌年も再び同じ新聞社で働くことを決意する。同僚とも次第に打ち解けていくうちに、記者たちが命がけで仕事をしていることを知ることになる。

「政治家の汚職、貧困や人身売買などの深刻な問題を教えてくれた記者、ガンビアでは書けない内容の記事を身の危険を冒してアメリカのオンライン新聞に送っていることを打ち明けてくれた記者もいました。2人はその後、何者かに襲われ、1人は亡くなり、もう1人は隣国のセネガルへ亡命しました。彼らが私の生き方に与えた影響は大きかった。写真を通じて伝える仕事をしたいと考え始めたのはこの頃です」

暮らしとモノ班 for promotion
なかなか始められない”英語”学習。まずは形から入るのもアリ!?
次のページ