あの雪の日から53年、桜橋交差点にカメラを向けると高層のオフィスビルが林立していた。交差点の近隣には通勤者に供する外食店が軒を並べているが、まったく生活感のない街並みに変貌していた。ちなみに、「桜橋」は後述する八丁堀(桜川)を渡る橋名に由来し、町名としては存在しなかった。
■八丁堀の由来と桜橋の都市伝説
このあたり一円は「八丁堀」と呼ばれており、その由来は江戸時代初期、水運を計るために京橋川の下流から隅田川を結ぶ堀割として開削されたことに始まる。この堀割の延長が河口から終端まで八丁(約870m)あったことから「八丁堀」と呼称されたようだ。この堀割の呼称が地名となり、堀の北側が本八丁堀、南側が南八丁堀になっていった。
明治以降、八丁堀は桜川と改称された。桜川河岸の一帯には水運による洋紙業、酒造業、鉄鋼業などの倉庫が林立していた。1960年代になるとモータリゼーションが普及し、役目を終えた桜川の埋め立てが始められた。現在は下流に整備された桜川公園がわずかに往時を偲ばせてくれる。
別カットは桜川に架けられた桜橋を渡る9系統渋谷行きと「手前で停車して」9系統の渡河を待つ36系統錦糸町駅前行きの都電だ。静止画面では「手前で停車している」都電が描写できないため語句を強調した。この写真では判別しづらいが、桜橋の橋上は複線軌道間隔が、1904年に東京市街鉄道が敷設した狭い規格のまま残置されていた。したがって、明治期よりも車幅が拡がった都電のすれ違い運転が回避された区間として、都市伝説になっていた。
■53年以上前に解体された桜橋
この伝説を検証するために、桜橋を渡った都電の車幅を調べてみた。戦後の主力となった3000型が2195mm、6000・7000・8000型が2210mm、7500型が2200mmだった。これと比較するため、明治期の街鉄電車の車幅を調べると2184mmだった。複線軌道の内側にオーバーハングする双方の数値差は数センチに過ぎない。しかしながら、車体がローリングして振れ幅が大きくなるなど、対向電車と接触するリスクを考慮して、すれ違い運転が回避されたものと推察した。
桜橋が撤去・平滑化されたのは1967年だった。旧都電通り(現・平成通り)には都電にかわった都バス路線、錦11系統亀戸・錦糸町駅前行きが健在だ。56年前と変わらないのは、画面中央左側の桜橋ポンプ所の建物程度で、八丁堀の背景には高層化されたオフィスビルが軒を連ねている。
幼少時に桜川河岸で遊び、えらく怒られた記憶がある。あの頃は桜橋を渡る都電の轟音と子供たちの歓声に満ちていた。都電も消え、子供の歓声も消えた街。その将来を考えさせられてしまう昨今だ。
■撮影;1967年2月11日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。