六月五日早朝、新選組から、組頭の武田観柳斎が率いる数名の隊士が桝屋に出張、喜右衛門こと古高俊太郎の身柄を拘束し、壬生屯所へ連行した。あわせて桝屋店内の捜索も行なわれた。
古高連行の報に長州系の活動家たちは騒然となった。在京中だった肥後の宮部鼎蔵や長州の吉田稔麿らリーダー格の者たちは、危機回避を優先させる。
宮部と吉田は、壬生屯所へ討入り、古高脱還をと叫ぶ者たちを長州藩邸に集めて説得し、ひとまず動揺を鎮めた。
古高がこの時点でどこまで自白したのかは判然としない。ただ、桝屋内の捜索で、火薬などが発見され、さらに前年末に認めた活動家らの血盟状なども押収された。2日後の七日は、祇園祭本祭で山鉾巡幸が実施される。こうした時期に、漠然とした危機が提示されたのである。
市中が混雑する中で、一人でも多くの不審者を捕らえ、不穏な出来事を阻止すべく、新選組は京都守護職に、治安勢力による至急の出動開始を要請した。
ここまで新選組解散を視野に入れていた近藤勇にとっても緊急の状況となった。当時、新選組の全隊士は約40名だった。
山崎丞ら少数を、古高脱還に備えて屯所警衛に残したとみられ、総勢34名で、出動待機場所の祇園町会所に集結した。
おいおい、治安勢力も出動体制を整える中、新選組は少ない隊士を機動的に動かすため、近藤勇と土方歳三の指揮する二分隊を編成した。四条通りを起点に近藤隊は鴨川西岸、土方隊は同東岸を北上しながら、潜伏浪士の捜索を行ない、二条通りから南下する会津兵と、三条通りで合流するという順路も決められた。
その頃、吉田稔麿は常宿の四条小橋の池田屋を訪れ、急遽書面を認したため、同志らを呼んでいる。まだ池田屋では何も始まっていない。皮肉にも新選組の捜索開始後、会合は整えられていったのだった。
(文/伊東成郎)
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より