「こんなこと、音楽でやって良いの?」
深夜のテレビ番組で矢野は、童謡のメドレーをジャズ風に編曲して演奏していた。心を打たれた清水は大急ぎでラジカセを手に掲げ、テレビのスピーカーの前で録音をスタート。♪いもむし、ごろごろ、ひょうたん、ぼっくり……。
「それまでの人生がモノクロだったのに、そこから光が差したかのような感じでした。カラーになった、というか。希望というか、目的を見つけた気がして、それ以来、なり切っていました」
実家のジャズ喫茶が懇意にするレコード店に「矢野顕子さんというひとのレコードが出たら、持ってきてください」と懇願。すると、店に届いたのは和田アキ子の名盤だった。大御所アッコちゃんが、まだまだ知名度も浅い頃のことだった。
実家の向かいにある清水家の倉庫。そこには、アップライトのピアノが置かれ、清水は先生に付いてピアノの本格的な稽古にいそしんだ。倉庫での日々を、弟・イチロウは振り返る。
「姉が練習の合間、耳コピーして覚えた矢野さんの『青い山脈』を弾くんですよ。そこに僕が高音でチョロチョロ、自分なりに合わせてみるんです。すると姉、物凄く迷惑そうな顔をするんです」
家業を担う技を磨けたらと、短大の家政科へ進むために上京。調理実習でつくったショートケーキに自分で感動し、その日のうちに自由が丘にあったドイツ菓子店「アルテリーベ」でのアルバイトを決めた。週3日、ケーキづくりに従事する。「お昼ごはんの賄いをつくるのが従業員に喜ばれたんです。1人400円で『ミッチャンの時だと嬉しいね』って。大雑把だったけど、わたし、やっぱり短期間で何かするのが好きなんだな」
短大卒業後、その店の紹介で田園調布のデリカ「PATE屋」に勤務し、鰊のマリネや牡蠣のペーストを拵えながら、ラジオ番組「タモリのオールナイトニッポン」や雑誌「ビックリハウス」にはがきを送り続けた。そんな清水に声を掛けたのが、デリカ店の経営者。清水が「はがき職人」であることを知っていたその経営者は、放送局に勤める親類を紹介し、そのツテで九州・RKB毎日放送のラジオ番組「クニ河内のラジオ・ギャグ・シャッフル」の構成作家に抜擢されたのだった。
「わたしがモノマネなどのネタを書いて、クニさんの番組内で時々、やり取りをして、東京でそれを録音したテープが九州に送られてオンエアされていたんです。2週間ぐらい後に反響のはがきが届くんですけど、それがすごく嬉しかった」
裏方の作家である自分の声を、どこかで聴いて、笑っているひとがいる。バイトを続けながら、週1回の収録が楽しみで仕方なくなった。この時、初めて電波に乗せたのが、桃井かおり、菊池桃子の声のマネだ。その破壊力は決定的で、清水のモノマネ芸は、こうして九州から波及していった。
●永六輔に芸を見初められ、テレビ出演が増える
時は流れて今年2月、東京・有楽町のニッポン放送。お笑いコンビ・ナイツの土屋伸之(40)が突然、生放送中にこう宣言し、ブースで見守っていた筆者はひっくり返った。
「来週のなぞかけのお題は『アエラ』! きょうの清水さんの密着取材にちなんで『アエラ』でお願いします!」
同局の名物番組「ラジオビバリー昼ズ」に、清水は95年からレギュラー出演している。「なぞかけ」は人気コーナーで、お題を出して1週間、リスナーと土屋がネタを競い合う。きっちりMCをこなす土屋に、相方・塙宣之(41)がキツめのボケで応酬、清水がそれをからかい、ときにパーンと突き放す。大山のぶ代(清水)、内海桂子師匠(塙)のモノマネ披露は毎週の定番だ。番組は軽妙に進行していく。
「僕が台本を書いたら、それで遊んでもらえる。そしてもっと面白くしてくれる」。番組の放送作家で、「清水とは30年の付き合いになる」松岡昇(56)は笑って清水をそう評する。言葉選び、一瞬一瞬で入れていくツッコミ、言葉の切りかた。松岡はすべてを尊敬する、と力説する。