「初夢フェスin武道館」終演後の楽屋挨拶で。森山のほか一青窈、藤井隆、椿鬼奴、黒沢かずこらが共演し、関係者も集結。楽屋は正月から熱気に包まれた(撮影/植田真紗美)
「初夢フェスin武道館」終演後の楽屋挨拶で。森山のほか一青窈、藤井隆、椿鬼奴、黒沢かずこらが共演し、関係者も集結。楽屋は正月から熱気に包まれた(撮影/植田真紗美)

「まさに『国民の叔母』。お母ちゃん、おふくろ、お姉さん、そこまで近くなく、距離感を保ってくれる。深入りしない。収録もどこからONかわからない。ふだんから着飾らない清水さんなんです」(CHIE)

 黄金週間、夕暮れの代々木公園。「東京レインボープライド」の青空ステージに、清水は立った。総動員が約15万人を数える一大イベントで、ひしめき合う観客らを前に、清水は「帰れない二人」を歌い始めた。井上陽水と忌野清志郎による73年の合作曲。ピアノ一本で、クセの強い2人の声を降臨させ、そのことばを旋律に乗せ、空へと放つ。その姿はお笑いの域をゆうに超え、魂を揺さぶるような余韻を残した。幾重に連なった彼らは目頭を熱くさせ、ただ聴き入っていた。

(文中敬称略)

■清水ミチコ(しみず・みちこ)
1960年/水郁夫・敬子の長女として岐阜県高山市に生まれる。高校1年生の時に矢野顕子、松任谷由実の音楽に触れる。高山西高校卒業と同時に上京、文教大学女子短大に進学。在学中からラジオ番組にネタを投稿し、採用されるようになる。
83年/ラジオ番組の構成作家として社会人デビュー。裏方だけでなく番組にも出演するようになり、人気に。
84年/テレビCMの声のキャラクターに(森永、金鳥、全日空など)。
86年/東京・渋谷「ジァンジァン」で初ライブ。
87年/フジテレビ系の新人発掘番組「冗談画報」に出演を果たし、テレビデビュー。同「笑っていいとも!」で全国区に。ファーストアルバム「幸せの骨頂」でCDデビュー。構成作家の仲間である坂田幸臣と結婚
88年/ゴールデンアロー賞芸能新人賞、リーボックベストフットワーカーズ大賞。CD「イージー・ジャパニーズ~清水ミチコの明るい日本語講座~」発売。フジテレビ「夢で逢えたら」スタート。
89年/CD「幸せのこだま」発売。楠田枝里子や浅田美代子などのネタ収録。
90年/CD「miss VOICES」発売。松任谷由実と松田聖子の対決、大竹しのぶ、岸田今日子など鉄板ネタ満載。モノマネ輪唱や留守番電話も。
92年/CD「飴と鞭」発売。このころ既に「作曲法」に着手するなか、隠れた名曲は「鳳蘭のマンボ」。
95年/ニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」レギュラー出演開始。
2005年/CD「歌のアルバム」発売。森山良子の名曲に乗せ、彼女ゆかりのアーティストの面々を歌い上げた「この凄い血筋いっぱい」収録。
06年/CD「リップサービス」発売。女優の歌い方を情感豊かに再現した「My Black Eyes」は問題作。
09年/CD「バッタもん」発売。シャンソン、タンゴ、ジャズなど音楽の幅を広げ、ラスト曲は矢野顕子と競演。
12年/初のベストアルバム「清水ミチコ物語」発売。ブログに寄せられたリクエストをもとに構成。
13年/初の日本武道館ライブ。この年から6期連続で年末年始に武道館での公演を続けている。単行本『主婦と演芸』(幻冬舎)を刊行。
14年/CD「趣味の演芸」発売。「ありがたい説法」や「謎のインド人・チャダ」とのデュエットなどを収録。
19年/「忌野清志郎ロックン・ロール・ショー」(日比谷野外大音楽堂)に仲井戸麗市、Char、鮎川誠、矢野顕子らと共に出演。

■加賀直樹
1974年、東京生まれの北海道育ち。元・朝日新聞記者。「AERA」「好書好日」「J:COMマガジン」などの媒体で執筆中。本欄では作曲家・阿部海太郎、絵本作家・ヨシタケシンスケを執筆。

※AERA 2019年6月10日号

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