ときおり仕事の合間を縫って清水が訪れるのは、東京・千駄ケ谷の「ランコントレ・ミグノン」。捨てられた動物を保護し、新しい「里親」を探す活動を続けるNPO法人だ。この日初対面のはずの猫が清水の肩の上に跳び乗ると、そのまま数十分、清水から離れなくなった(撮影/植田真紗美)
ときおり仕事の合間を縫って清水が訪れるのは、東京・千駄ケ谷の「ランコントレ・ミグノン」。捨てられた動物を保護し、新しい「里親」を探す活動を続けるNPO法人だ。この日初対面のはずの猫が清水の肩の上に跳び乗ると、そのまま数十分、清水から離れなくなった(撮影/植田真紗美)

「その場その場で集中して喋る時が一番面白いんです。そのぶん飽きっぽいところもあるけど」

 松岡が清水を初めて知ったのは、駆け出し作家だった頃。清水が初舞台を踏んだ渋谷の小劇場「ジァンジァン」だ。矢野顕子、ユーミン、小柳ルミ子の発声法、「ねこふんじゃった」をバッハが弾いたら……。客席にいた永六輔に芸を見初められ、「冗談画報」「笑っていいとも!」とテレビ出演の機会を増やしていくことになるのだが、まさにその「芸人誕生の瞬間」を松岡も共有していた。

「柱の陰に座る客にも清水さん、声を掛けるんです。いまも武道館でやっているでしょ、見えにくい位置のお客さんをイジって。ジァンジァンも武道館も同じ、室内芸。変わらないのが凄いです」

 当の清水は、「ジァンジァン」公演後、劇場近くの東武ホテル内の喫茶店に駆け込んだ。呼びつけたのは永六輔だ。永は、清水にこう言い放った。

「芸はプロだけど生き方がアマチュア」

 舞台に出たら、まずお辞儀。それから初めて、ふざける。ふざけ終わったら、またお辞儀。そんな基本が何一つできていない。ペコペコとして、覚悟がない。観客が拍手する間もつくらない。清水は笑いながら言う。

「お客さんも拍手がしたいものです、って観客に言われて、それはすごく反省しました」

●うまくできず悩んだ「夢で逢えたら」

 芸人として下積み生活を何一つ経ていない。裏方にいた自分がいつの間にか表舞台に上がってしまった。そんな清水にとって、最初の大きな壁が立ちはだかった。「夢で逢えたら」。1988年にスタートしたフジテレビ系の深夜バラエティーで、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子といった「お笑い第3世代」と称される彼らが一堂に会した番組だ。清水は当時を、心なしか厳しい表情でこう振り返る。

「皆でつくっていく番組でした。ちょっとでもミスすると、すごく強い言葉で突っ込まれるんです。『わたしは向いてない』って感じでした」

 まわりの「軽快な感じ」がどうしても出せない。年齢も微妙に自分が上。違和感がぬぐえない。何より、自分がアドリブ一つ返せないことに驚いた。「後悔していたし、暗かった。後半、野沢直子とナンチャンと仲良しトリオになってからは希望が見えたんですけど」。ただ、転機が訪れた。それは、番組内で誕生した伝説のブサイクキャラ「ミドリ」だった。ワンレン、「オン・ザ眉毛」で奇抜な化粧のこのミドリが大ブレーク。

「皆の足を引っ張って、困ったな、という状態の時に、たまたまキャラクターができた。それでようやく恩返しできたのかもしれません」

 エッセイストとしても数々の著作を重ねている清水。「テレビブロス」(東京ニュース通信社)の連載コラム「私のテレビ日記」は、ちょうど清水が悩んでいたこの頃に始まり、清水の芸能生活史上、いまとなっては最長記録を更新中だ。2008年から担当編集を務めている木下拓海(42)は、長寿コラムの筆致をこう評する。

「一歩引いた見方をしているんです。ふつうなら気にとめることなく過ぎ去ってしまう情報のなかに、ネタを見つけ、『これってこういうことだよな』って、シミジミ思い返すような文章」

 たとえば、江頭2:50の寂しそうな眼差し。少年の心を持つ平野レミ、テレビ「新婚さんいらっしゃい!」の夫婦が放つ赤裸々な棒読み話……。見落としがちだが、改めて着目してみると琴線に触れるようなネタは尽きない。下北沢の清水の自宅で時折、ご飯を食べるという木下は言う。

「芸能界で生きるひとって、顔色ばかりうかがって、疲弊して、ブラック企業の会社員みたいなのばかり。なのに、清水さんはまったく表裏がないんです。自由で豪快でシンプルなひと」

 デビュー当初はインドア派だった清水は、いまでは後輩の女性芸能人とも交流を深めている。光浦靖子(48)、椿鬼奴(47)、黒沢かずこ(40)……。スピリチュアルタレントCHIE(27)もその一人だ。CHIEは台湾や北欧などを清水と旅行したり、下北沢界隈の美味しい店を探索したり。

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