2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は東京の北の玄関口として親しまれている上野駅前を走る都電だ。
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国鉄(現JR)上野駅は東北本線・高崎線、常磐線の始発駅として1883年に開業。明治、大正、昭和、平成、そして令和になった今年で136年を迎えることになる。
東北新幹線、上越・北陸新幹線の始発駅が東京駅に変わり、上野発着の在来線も湘南新宿ライン、上野~東京ラインの開設で、列車本数が減少してしまった。「北の玄関口」としての上野駅の役割が低下した昨今だ。
上野駅の本屋は1932年竣工で、築87年を数える。1987年にJR(民営化)になってからも、外観の保持と内装のリニューアル化が進められ、本屋二階のバルコニーからの展望は、一見に値しよう。
浅草の田原町(たわらまち)から上野駅前に続く浅草通りは東西方向に一直線で敷かれている。ここからは上野駅本屋が正面に遠望でき、駅本屋が高層建築の無かった時代のランドマークの一つとなっていた。
■明治期から駅前を走っていた路面電車
上野駅前に路面電車が走ったのは東京電車鉄道による上野線・吾妻橋線で、1904年に開通を見ている。当時、上野駅前は上野停車場前と呼ばれ、浅草方の田原町までは道路が狭隘なため、経由道路を違えた一方通行の単線運転が実施されていた。二年後の1906年に複線化され、北側の旧線は廃止された。
関東大震災後の復興事業で道幅の広い浅草通りや昭和通りが整備され、上野駅前も1929年9月から上野・吾妻橋線と和泉橋・三ノ輪線とを統括した市電乗降所が開設された。
ちなみに、市電最盛期の1936年に上野駅前を走った市電系統は2系統(三田~向島)、22系統(千住四丁目~土州橋)、25系統(柳島~大門)の三系統だった。
都電になった戦後の上野駅前は1系統(品川駅前~上野駅前)、21系統(千住四丁目~水天宮前)、24系統(福神橋~須田町)、30系統(寺島町二丁目~須田町)の四系統に改編された。
写真は上野駅本屋を背景に昭和通りの三ノ輪線を走る21系統千住四丁目行きと、浅草通りの吾妻橋線で信号待ちする30系統須田町行きの都電。両線は上野駅前で鋭角に平面交差していた。画面左側の町名は車坂町(現・東上野三丁目)で、明治期の停留所名にも用いられていた。ここには戦災を免れた商店が軒を並べており、左から光栄電機工業、朝日食堂、長塚延寿堂薬局、喜昇堂草加せんべい店と、写真では見えないが昭和通り側にきつね鮨店、丸越書店が盛業していた。
上野駅前の現況写真を観察すると、旧商店街の跡地には14階建「三井ガーデンホテル上野」が2010年9月にオープンしており、上野駅に直結のホテルとして人気がある。
画面の中央、空に蓋をするように建設されたのが首都高速1号上野線だ。1969年5月に全線開通しているから、21、24、30系統の都電が残存していた時期に、この高架道路が架かってしまったわけだ。
上野駅の東口には1967年頃から歩道橋が架かり、現在では駅前広場を周回するように設置されている。このため、レジェンドとなった上野駅本屋の景観は、写真のようにはなはだしく阻害されてしまった。