2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は西武鉄道から引き継いだ青梅街道を走る「杉並線」の都電だ。
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写真は運転最終日の1963年11月30日、青梅街道(都道5号線)が国鉄中央線(現・JR)を跨線する天沼橋西詰のビルから、14系統荻窪駅前行き2000型を200mm望遠レンズで狙った一コマだ。本来は荻窪駅の方向幕を表示しているのだが、終点間際のため新宿駅の方向幕に変更されていた。月末の夕刻のためか、かなりの自動車が青梅街道を走っていた。この時代になると、需要がオート三輪車から小型四輪トラックに置き換わっており、そのきっかけとなった二世代目の「トヨエース」が、画面の中に6台も写り込んでいる。
左奥のダイハツ三輪車が右折待ちする道路が旧線跡で、ひとつ手前の成宗停留所から単線で終点の荻窪停留所に向っていた。橋上に軌道が敷設された天沼跨線橋が竣工して、荻窪駅北口に路線を移設。懸案であった杉並線の複線化が完成したのが1956年1月だった。
この14系統は新宿駅前を発して本町通二丁目~鍋屋横丁~高円寺一丁目~杉並車庫前~阿佐ヶ谷~荻窪駅前を結ぶ7388mの路線で、開業以来1067mmの軌間で運転されていた。新宿駅前~高円寺一丁目が高円寺線で、高円寺一丁目~荻窪駅前が荻窪線に分類されるが、沿線住民は「杉並線」と通称で呼んでいた。
1951年、西武鉄道から買収時の杉並線は新宿駅前~鍋屋横丁が複線で、鍋屋横丁~荻窪は単線だった。単線区間で離合設備がある停留所は、橋場・西町・高円寺一丁目・妙法寺口・高円寺車庫前・馬橋・阿佐ヶ谷の七停留所だった。色灯信号やタブレットなどの運転保安設備は無く「離合する乗務員相互の手信号で後続する電車の本数を確認し、安全を確保していた」というレポートを読んだことがある。原始的な保安方式だったが、低速な路面運転ゆえ、正面衝突などの大事故は皆無だった。
都営となった1951年から複線化工事が始まり、前述の天沼跨線橋へ軌道移設工事が完了した1956年に全線が複線化された。
■都電廃止の矢面に立ち、杉並線が最初に廃止された
1960年代に入ると自動車渋滞が深刻な問題となり、都電が邪魔者扱いされだした。道路拡幅が遅れた青梅街道も渋滞問題は深刻だった。1962年に杉並線とほぼ平行する青梅街道下に営団地下鉄(現・東京地下鉄)荻窪線が開通すると、杉並線の乗客数は激減した。1952年のトロリーバス開業時、発展的に廃止された26系統今井線を除外すると、杉並線が「都電廃止第一号」の俎上に上げられ、1963年12月1日に廃止が決まった。
筆者にとって初めての都電路線廃止であり、最終日の11月30日は鍋屋横丁を皮切りに、終電車まで続く廃止セレモニーを体験した。これが1967年12月の銀座線廃止に連なる都電廃止の序章であった。