写真の奥に赤レンガ積みの高架橋と交通博物館が見える(撮影/諸河久:1965年10月10日)
写真の奥に赤レンガ積みの高架橋と交通博物館が見える(撮影/諸河久:1965年10月10日)

 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、いまや世界中からの観光客でごった返すサブカルチャーの聖地・秋葉原からほど近い場所にあり、神田川に架橋された「万世橋」を渡る都電だ。

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 JR秋葉原駅「電気街口」。家電や電子機器店が所狭しに軒を連ねた昭和のころを知る世代には、現在の大きく様変わりしたこの付近に面影を感じないかもしれない。だが、現在もわずかに残る電子パーツ店の脇を通り、中央通りを南に進むと、当時を知る人も見覚えのある赤レンガ造りの建造物が見えてくる。旧万世橋駅跡の高架橋だ。

 撮影当時、この中央通りには都電「上野線」が走っていた。南から北に向かって須田町の交差点を渡ると、頭上に国鉄中央本線・万世橋高架橋が、さらに高架橋を抜けると視界が開け、神田川を渡る万世橋が見えてくる。現在の万世橋は関東大震災の復興事業で1930年に架橋された。全長26m、全幅36mの石とコンクリート混成のアーチ橋で、橋の四隅に石積みの大きな擬宝珠(ぎぼし)をいただいているのが特徴だ。

 写真は、万世橋交差点の北東側から万世橋を渡る20系統江戸川橋行きと続行する19系統王子駅前行きを撮影。右側に万世橋の擬宝珠が見える。右隅の車はトヨタ初の大衆車「トヨタ パブリカ」で、その奥にタクシー仕様の1965年式「プリンス グロリア」や「ニッサン ブルーバード310型」も写っている。

約50年が経過した現在の写真(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
約50年が経過した現在の写真(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 万世橋の橋上は、1系統、19系統、20系統、24系統、30系統、40系統の六系統の都電で大いににぎわう。この20系統は江戸川橋を発して、護国寺前~大塚仲町~駕籠町~神明町車庫前~上野公園~上野広小路~万世橋~須田町に至る9401mの路線。日曜・祭日には池袋駅前~上野広小路の臨時20系統も運転された。続行する19系統は、万世橋交差点を左折して御茶ノ水線に入り、次の松住町の先を右折して本郷線に入り王子駅前に向かっていた。

 中央本線・万世橋高架橋の辺りには「江戸36見附」の一つだった筋違御門(すじかえごもん)があったと伝えられている。筋違御門に通じる神田川に架けられた橋が筋違橋で、徳川将軍の上野寛永寺への御成道となっていた。明治期になって筋違御門は撤去され、筋違橋は石造りのアーチ橋に改築。東京府知事により萬世橋(よろずばし)と命名されたが、眼鏡橋(めがねばし)とも俗称された。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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