勉強のできた新井は小学校時代から父に代わって見積書や請求書の作成をしていたから、家計の状況も把握していた。経済格差という現実に打ちのめされたのは、仲のいい友人たちが中学受験をして都内の名門校に進学した時だ。「お金さえあれば」。その思いを強くした。

 一方で、「お金がない」ことを言い訳にはしたくなかった。新井は大好きな母からこう言われたことがある。「こんな私から生まれてごめんね」と。母が親戚に「この子だけはなんとかして大学に行かせてやりたい」と話している声も聞いた。母を喜ばせたい一心で、勉強だけでなく学級委員にも進んで手を挙げた。

 経済的事情から大学は夜間に行き、昼間働くことは決めていたものの、昼間部の試験も受けて合格した。母のためにも自分のためにも「優秀である」ことを証明したかった。

 銀行に就職したのも、お金の苦労と無縁ではない。当時大手金融機関への就職は就活の「勝ち組」と見られていたが、新井は東大や早慶出身の同期よりも抜きんでるために、数年で取るべき資格を2年で取得し、早々にエリートコースである調査部に抜擢(ばってき)された。「幼い頃から悔しさの中で『勝ちたい意識』があった」という。

 バークレイズを退職し、元同僚と鎌倉投信を立ち上げた時、15年ぶりに橋本に連絡した。「宿題の答え、わかったか」と聞かれ、新井は宿題の中身すら思い出せなかった。苦し紛れに「つくづくお金が嫌になりました」と答えると、「まだわかってないな」と言われた。本気で「お金」について考えるようになるのはそれからだ。

(文中敬称略)

(文・浜田敬子)

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