仕事柄、ノンフィクションとは何なのかと考えることが多い。ノンフィクションとはフィクションではない物語、一言でいえば創作ではなく事実にもとづいた物語だ。映像の世界ではドキュメンタリーという言葉がよくつかわれる。そのノンフィクション作家やドキュメンタリストが依拠している事実なるものだが、はたして真のまぎれもなき事実、誰にとっても間違いのない事実というのは一体どこに存在するのだろう。この問題を考え出すと、ノンフィクションとは何かという問いは哲学的な深みに沈み、答えの出ない禅問答のごとき輪廻をくりかえす。
たとえば私は昨冬、太陽の昇らない極夜(きよくや)という暗黒の時期の北極圏を80日間にわたり放浪探検した。旅の間に私は極夜という現象の事実的本質を示す、いわば極夜の極夜性なるものをつかみ取った手応えを得たが、それがどこに立ち現れたかというと、私の内面的な主観においてであった。毎日が暗くて寒い闇の世界で感じられる憂鬱や混沌。月光にすがって行動するも、その月光に騙されたことから生じる憤りや絶望。そして早く太陽が見たいと希う願望。旅の間に目まぐるしく変化したこうした心情や、そこから導き出された洞察の中にこそ、私は極夜の事実的極夜性がまぎれもなく表象されていると考え、この一連の経過をノンフィクション作品として発表した。
だが見方を変えれば、そんなものは客観的な事実ではなく単なる主観的な思い込みにすぎないと断じることも可能だろう。しかし、そう考える人たちが言うところの客観的な極夜なるものが仮にあったとして、それを文章で記述したらどうなるか。私の人生を賭けた旅は、おそらく〈太陽のない氷点下40度前後の氷の上を80日間歩いた〉という無味乾燥な文章で完結してしまうにちがいない。この文章は表面的には正確かもしれないが、しかし私から見ると極夜の最も極夜的な本質は表現されておらず、まったく事実とは異なると感じる。
このように客観的な事実というものは基本的にはどこにも存在しない。本書で言及される〈事実はない。あるのは解釈だけだ〉というニーチェの言葉は、それこそ事実である。言葉にしろ映像にしろ何らかの表現活動に従事している者にとってこの事実は自明であるが、しかし、メディアに携わる者以外にはあまり浸透していないのかもしれない。