旅を通して知ったのは、安住の地をつくり上げるために原生林の中を彷徨うようにして生きる首長族たちの力強さだった。時には猛獣に襲われ、時には死産をくり返し、時には文明との衝突に苦しむ。それでも、彼らはある形で伝統を守りつつ、命を次世代へとつないでいこうとしていた。
グアテマラやタイでは、こうした伝統的なお産とは対極にある生殖医療の最前線を見に行った。2014年に光通信の御曹司がタイで代理母をつかって大勢の子供をつくっていたことが発覚。世界中で代理母出産の是非が問われたのを契機に、私はその現場を巡ったのだ。そこでは、アパレルメーカーが安い人件費を求めて工場を次々に移転させるがごとく、代理母出産の「現場」が変容していく実態を見た。
アフリカのスワジランドでは、世界一のエイズ大国が直面するお産の現場を訪れ、タンザニアでは、「万能薬」と見なされて命を狙われるアルビノの人々のお産について考えた。いずれも、死と隣り合わせの中での出産だ。エイズや差別の中で、人々は何を思って子供を産み、その子供たちはどういう状態に置かれているのか。
シリア難民のお産も印象的だった。内戦の最前線でも、人々の営みは変わっていなかった。人々は新しい命を切望し、それを守るために祖国を離れていく。そして、今、難民キャンプには「人口爆発」という新たな問題が起きていた。
その他、ホンジュラス、フィリピン、スリランカなどにも足を延ばして取材を行った。
こうした国々への旅は、子供を産み育てるということについて、私に新しい目線を投げかけてくれたように思う。
どんな悲しみの現場にも、人が生きているかぎりかならずお産という営みはある。それが人間の心を支えることになることもあれば、逆に悲しみを生み出すこともある。それでもなお、人は前を向いて命をつないでいこうとするのだ。
現在の日本では、お産や育児が従来のものとは形を変えつつある。不妊治療ビジネスが一大市場になったり、育児ノイローゼやネグレクトによる事件が注目されたりしている。また、「妊活」という言葉もブームだ。
そんな時代だからこそ、「世界で行われている命の営み」に目を向け、もう一度、子供を産み育てることが何なのか考えてみてもらいたいと思う。