
報道写真家の石川文洋さん(87)は、ベトナムをはじめ、多くの戦場を取材し、撮影してきた。戦後80年の今年は、ベトナム戦争終結50年の節目でもある。石川さんに戦争とは、平和とは何かを聞いた。
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――1975年4月30日、首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府が降伏。これにより、ベトナム戦争が終結しました。今年はその終結から50年の節目です。石川さんは、ベトナムで4年間暮らし、ベトナム戦争をカメラマンとして取材。その後も毎年のようにベトナムを訪ねておられます。
私がベトナムに初めて行ったのは1964年です。世界一周無銭旅行を計画し、その旅の途中でベトナムを訪れました。55年から始まったとされるベトナム戦争が沖縄戦と同じく地上戦であるということを知り、きちんと取材をしようと考えました。というのも私は沖縄生まれで、すぐに本土に引っ越しましたが、日本人である前に沖縄人だという意識が強い。65年から4年間、ベトナムに住んで取材を始めましたが、沖縄とベトナム戦争を重ねながら取材しました。他にも何人か日本から取材に来ている人はいましたし、「週刊朝日」の臨時特派員として開高健さんも取材していましたが、沖縄人であるということは他の人と違った視点だったと思います。
両足を失った赤ちゃんが母親の乳を吸っていた
――ベトナムで撮りたかったものは何だったのでしょうか?
戦争は民間人が犠牲になる、ということです。これは、私のテーマです。今でも忘れられないのは、66年2月にベトナムの農村で米軍が民間人を攻撃したことです。その日はテト(旧正月)のため、農家など村人が大きな野外市場に農産物を出す準備をしていました。そうしたら、(南ベトナム)解放戦線の移動と間違われ、米軍が1分間に何千発も撃てる武装ヘリで農民たちを攻撃したのです。
私はその話を聞いてすぐ、カントーの病院に行きました。38人の負傷者が病院で手当てを受けていましたが、ベッドは血で濡れ、片足、片腕がない人もいた。すごい光景でした。ジャーナリストは私一人で、病院の事務長が「報道してくれ」と病院内を案内してくれたんです。私はそれを撮影していきました。
両足を失った赤ちゃんもいました。両足がないけど、麻酔が効いていたんでしょうね、母親の乳を吸っていた。母親が赤ちゃんにかけてあった毛布をめくって「写してくれ」と。みんなに伝えてほしい、と言う人もいました。そういうのを4年間、たくさん見てきました。

シャッターが切れなかった瞬間も
――ベトナム取材のときにシャッターが切れなかった瞬間というのはありますか?
1回だけありました。65年のことですが、米軍の将校が「乗らないか」と声をかけてくれたので、軍用車で移動したんです。軍用車は2台で、1台目には将校たちが乗り、2台目に私が乗りました。私が少し離れたところで写真を撮っているとき、「ドーン!」と大きな爆発音がして振り向いたら、私が乗っていた軍用車が地雷を踏んで吹っ飛んでいました。運転手が地べたに死んでいるか生きているか分からない状態で倒れていて、普段であれば写真を撮ります。でも、そのときは撮れなかったですね。後から軍用車は別の場所で撮りましたけど、撮影できなかったのはその1回だけでした。