
普段は「いい人」が農民を殺す
――ベトナムで一般市民の目線で多くの写真を撮影され、アメリカ兵の残虐な場面も写真には収めています。それでも石川さんがアメリカ兵のことを悪く思わないのは、なぜでしょうか?
戦争というのは残酷なものです。普段はいい人で、基地で一緒に酒を飲んだりするアメリカ兵が、戦地ではベトナムの村に爆弾を落としたり、機関銃を撃ち込んだりして農民を殺す。ベトナム人の遺体の前で笑ったりもする。戦争は人を変えるんです。私だってもし兵士として戦地に行ったら、人を殺したと思います。アメリカ兵も被害者だという気持ちがあります。彼らも徴兵されてベトナムに来ていて、家にいれば家族や友人と一緒にいられるわけですから。そこは分かっていると。
――今年も4月から5月にかけてベトナムを訪れました。
ホーチミン市でベトナム戦争終結50周年の式典が行われ、それに招待されたので行ってきました。その式典の前に、カントーの病院で撮影した38人の負傷者がどうなったかを調べたくて、カントーに行きました。誰か生存者はいるはずで、その人たちに結婚したのか、政府の補償はあるのか、周りの人からどういう目で見られたかなど、実際に会っていろんな話を聞きたかったんです。しかし、攻撃を受けた村も分からず、病院には記録も残っておらず、誰も分かりませんでした。調べてくれると言うので、写真集などを置いてきましたが。
戦争は民間人が犠牲になる
――石川さんが取材を通して知った「戦争」とは何でしょうか?
先ほども申し上げましたが、戦争になれば民間人が犠牲になる、ということです。それはどの戦争でも同じです。パレスチナのガザを見てもそうです。病院や難民キャンプが爆撃されていますが、あれは戦争に巻き込まれて民間人が死んでいるのではなく、イスラエル人がわざと攻撃しているのでしょう。これは将来、戦争が起きても変わりません。政府や軍部は民間人のことを考えません。

沖縄で生まれ、日本で経験した戦争
――実際に石川さんが日本で経験した戦争はどんなものでしたか?
沖縄戦のときは本土にいたので、私自身は沖縄戦は経験していないのですが、母方のおじいさんが60歳で防衛隊に取られ、まだ遺骨が見つかっていません。沖縄戦は4人に1人が亡くなったといわれ、沖縄の人は家族の誰かが沖縄戦で亡くなっています。私自身は千葉の船橋にいたのですが、船橋は大きな空襲がなく、いわゆる命からがら逃げるといった経験はありません。ただ、東京大空襲のときは、東京の空が真っ赤になっているのが船橋から見えました。
――生活はどうだったのでしょうか?
今だと、代用食なんて想像つかないでしょう。米を作る働き手が兵士になったり、収穫されても海外の日本軍のために送られたりしたので、我々の食べる米がないんです。ときどき配給されると、麦やサツマイモを入れたりして食べました。米の代用食として、トウモロコシの粉とか、サツマイモなんかはツルまで食べました。サツマイモは芽が出たら、その芽を取って畑に植え、残った親イモを食べるんですが、養分が全部芽にいってますからまずいですよ。そういうのを食べてましたね。ひもじかったですよ。着る物もボロを着て、傘がないから雨の日は学校を休んだり。中学生より前の写真は一枚もありません。写真はお金持ちが撮るものでしたから。私のところは超貧乏で、中学生のときの写真が少しあるくらいです。